FC2ブログ
龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
別窓 | スポンサー広告
文久3年(1863)6月
2013-05-27 Mon 19:25
おっす龍馬ぜよ。今年で29歳になるぜよ。
今日は文久3年6月の歴史を振り返るきに。
ちなみに土佐弁は偽物じゃきに。


6月1日
米国軍艦「ワイオミング号」が長州藩へ報復攻撃し長州軍艦3隻を沈没、亀山砲台を破壊する。

6月1日
明石藩の要請により、軍艦奉行並・勝義邦に従い舞子浜の砲台を改修する。

6月1日
長州藩壬戌丸水夫・井原嘉平次、下関海峡で米艦の砲撃を受け戦死。(25歳)

6月1日
長州藩壬戌丸水夫・小山惣右衛門、下関海峡で米艦の砲撃を受け戦死。

6月1日
長州藩壬戌丸水夫・斎藤亀蔵、下関海峡で米艦の砲撃を受け戦死。

6月1日
長州藩壬戌丸水夫・七五郎、下関海峡で米艦の砲撃を受け戦死。

6月1日
長州藩壬戌丸水夫・助重助三郎、下関海峡で米艦の砲撃を受け戦死。

6月1日
長州藩壬戌丸水夫・堀寅蔵、下関海峡で米艦の砲撃を受け戦死。

6月1日
長州藩壬戌丸水夫・山本弥八、下関海峡で米艦の砲撃を受け戦死。

6月1日
長州藩壬戌丸水夫・横山市平、下関海峡で米艦の砲撃を受け戦死。

6月1日
久留米藩士・真木和泉が山口を発す。

6月2日
老中格・小笠原長行軍が枚方に至る。

6月2日
岡山藩主・池田茂政が京都を発し帰藩の途に就く。

6月2日
壬生浪士十名が浪士捕縛の為大坂に向う。

6月2日
軍艦奉行並・勝義邦に依頼して門下生に加えられた土佐藩士・廣井磐之助が紀泉の国境で父の仇・棚橋三郎を討ち取る。

6月2日
土佐神官・掛橋和泉、同志脱藩の資金援助を養母に疑われ同志の秘密を守るため小銃自殺。(28歳)

6月3日
征夷大将軍・徳川家茂が東帰の前に将軍輔翼・徳川慶勝、老中・水野忠精、板倉勝静、京都守護職・松平容保、高田藩主・榊原政敬ら在京諸侯を従え参朝する。

6月3日
壬生浪士が大坂にて浪士・高沢民部、柴田玄蕃ら二名を捕縛する。

6月3日
壬生浪士組士、芹沢鴨・山南敬助、沖田総司、永倉新八、平山五郎、野口健司、斎藤一、島田魁らが大阪・堂島川で舟遊びをし、上陸後蜆橋で大阪力士と乱闘となる。夜、近藤勇、芹沢鴨の連名で乱闘の顛末書を東町奉行所に提出する。

6月3日
土佐藩士・武市半平太が前土佐藩主・山内豊信に藩政改革を建議する。

6月4日
老中首座・水野忠精が老中格・小笠原長行軍に駆けつけ勅命・幕命による上洛の禁止を説得する。

6月4日
大坂力士・熊川熊次郎、前日の壬生浪士組との乱闘で負った傷がもとで死亡。

6月5日
中川宮尊融親王が書を上りて攘夷先鋒の命を賜らんことを請う。

6月5日
征夷大将軍・徳川家茂が親書を送り老中格・小笠原長行へ上洛禁止を命じる。

6月5日
長州藩が仏国軍艦「セミラミス号」・「タンクレード号」の攻撃を受け前田・壇ノ浦の砲台が破壊される。

6月5日
長州藩主・毛利敬親が山口に藩士・高杉晋作を召し、対仏戦敗戦に関し意見を求め馬関防御を命じる。

6月5日
長州藩士・佐々木又四郎、前田浜砲台に上陸した仏軍の捕虜となることを恐れ茶臼山にて自刃。(26歳)

6月5日
長州藩士・山田源槌、前田浜砲台に上陸した仏軍の捕虜となることを恐れ茶臼山にて自刃。

6月5日
長州藩庚申丸・上田仁兵衛、下関海峡で仏艦の砲撃を受け戦死。

6月5日
長州藩庚申丸・西林利吉、下関海峡で仏艦の砲撃を受け戦死。

6月5日
長州藩士、先鋒隊士・山内賢之允、前田台場にて砲撃を受け戦死。(22歳)

6月6日
老中・板倉勝静が老中格・小笠原長行軍に駆けつけ解兵を命令する。

6月6日
長州藩士・高杉晋作が下関に至り豪商・白石正一郎宅に入る。

6月7日
朝廷が征夷大将軍・徳川家茂の江戸帰府を承認する。

6月7日
長州藩士・高杉晋作・来島又兵衛等が謀議し同志を糾合して奇兵隊を結成、奇兵隊綱領を作成し、河上弥一に山口藩庁へ届けさせる。

6月7日
久留米藩士・真木和泉が大坂に至る。

6月7日
岡山藩主・池田茂政が帰藩する。

6月7日
土佐藩鍛冶職・小松小太郎、蝦夷視察のため北上中船中にて病死。(21歳)

6月8日
元侍従・中山忠光が上京し長州藩邸に入る。

6月8日
久留米藩士・真木和泉が京都に入る。

6月8日
長州藩士・吉田稔麿、堀真五郎らが淀城下にて探索を行う。

6月8日
土佐藩士・平井収二郎、間崎哲馬、広瀬健太が青蓮院宮(中川宮)から令旨を賜り、それを楯に藩政改革を行おうとしたが、前土佐藩主・山内豊信の怒りにふれ切腹を申し付けられる。
(青蓮院宮令旨事件)

6月8日
土佐藩士・平井収二郎、中川宮を利用して藩政改革を行おうとし前藩主・山内豊信の怒りにふれ切腹。(29歳)

6月8日
土佐藩士・間崎哲馬、中川宮を利用して藩政改革を行おうとし前藩主・山内豊信の怒りにふれ切腹。(30歳)

6月8日
土佐藩士・広瀬健太、中川宮を利用して藩政改革を行おうとし前藩主・山内豊信の怒りにふれ切腹。(28歳)

6月9日
江戸城西ノ丸が炎上焼失する。

6月9日
征夷大将軍・徳川家茂が大坂城に入り、老中格・小笠原長行を罷免する。

6月9日
長州藩士・吉田稔麿、堀真五郎が征夷大将軍・徳川家茂の下坂の様子を偵察する。

6月10日
米・英・仏・蘭の4カ国代表が横浜にて協議し長州攻撃を決定する。

6月10日
蘭学者、医学者、敵塾主催・緒方洪庵、江戸にて病死する。(54歳)

6月12日
長州藩士・高杉晋作が馬関惣奉行手元役に任命される。

6月12日
長府藩医・興膳昌蔵、石炭密売の嫌疑で攘夷派に疎まれ奇兵隊士により暗殺される。(37歳)

6月13日
征夷大将軍・徳川家茂が老中・水野忠精、板倉勝静らを従え大坂城を発し軍艦「順動丸」に乗艦、大坂港を出港する。

6月13日
将軍後見職・一橋慶喜が関白・鷹司輔熙に書を送り重ねて辞職を請う。

6月13日
第9代小諸藩主・牧野康哉、死去。(46歳)

6月14日
土佐藩士・中岡慎太郎、島村寿太郎、大石弥太郎、島村衛吉らが安芸に向かい清岡治之助を訪ねる。

6月14日
福井藩御側用人・中根雪江が蟄居謹慎を命じられる。

6月14日
坂本乙女宛書簡
(龍馬の手紙)

6月16日
征夷大将軍・徳川家茂が江戸へ至る。

6月16日
池内蔵太の母宛書簡
(龍馬の手紙)

6月17日
京都守護職・松平容保、前尾張藩主・徳川慶勝と謀り速やかに攘夷応援の朝旨を布告する事を老中・水野忠精等に促す。

6月17日
長州藩家老・清水清太郎、同藩士・桂小五郎、佐々木男也、寺島忠三郎らが久留米藩士・真木和泉を京都東山「翠紅館」に招き攘夷親征に関し議す。

6月18日
姫路藩主・酒井忠績が老中に任命される。

6月18日
杵築藩士・日田邦太、開国論を唱えた為広島にて暗殺される。

6月19日
老中・板倉勝静が幕府に辞職を請う。

6月20日
長州藩士・吉田稔麿が京都を出立し山口へ向かう。

6月21日
薩摩藩への御所九門の出入り禁止が解かれる。

6月22日
英国東洋艦隊が横浜を出航し鹿児島へ向かう。

6月23日
久留米藩士・真木和泉が長州藩士・桂小五郎を訪ねる。

6月24日
将軍後見職・一橋慶喜が関白・鷹司輔熙、に書を送り重ねて辞職を請う。

6月24日
長州藩士・高杉晋作が下関から山口へ向う。

6月24日
公家・武者小路実建、死去。(54歳)

6月25日
朝廷が京都守護職・松平容保に東下を命じる。

6月25日
再び明石藩からの要請により舞子に至り、砲台を改修する。

6月26日
水戸藩主・徳川慶篤が関白・鷹司輔熙、に書を送り将軍後見職・一橋慶喜の上京の勅命を賜ることを請う。

6月26日
長州藩士による老中・小笠原長行襲撃の勧誘を断る。

6月26日
徳島藩儒・安芸田面、公武合体を説き京都二条新地で暗殺される。(49歳)

6月26日
浪人・植村長兵衛、壬生浪士と偽って金策したことにより京都にて斬殺、梟首される。

6月26日
近衛篤麿、京都にて左大臣・近衛忠房の長男として生まれる。

6月27日
京都の福井藩邸で村田巳三郎と面談する。

6月27日
英国東洋艦隊七隻が鹿児島湾に侵入、生麦事件の謝罪・犯人処罰・賠償金を薩摩藩に要求する。

6月27日
薩摩藩、西瓜売りに化けた決死隊をイギリス艦隊に送り込み軍艦を乗っ取ろうとしたが乗船を許されず失敗する。

6月27日
長州藩主・毛利敬親が高杉晋作を政務役とし奇兵隊総督に任命し下関に駐在させる。

6月27日
久留米藩士・真木和泉に学習院出仕を命じる。

6月27日
壬生浪士・芹沢鴨が角屋で乱暴を働き角屋に営業停止七日間を申し渡す。

6月28日
福岡藩士・平野国臣が福岡を出立し京都へ向かう。

6月28日
坂本乙女宛書簡
(龍馬の手紙)

6月29日 長州藩主・毛利敬親が家老・清水清太郎、留守居・村田次郎三郎に、武家伝奏・野宮定功、議奏・三条実美に元侍従・中山忠光の赦免を嘆願させる。

6月29日
浪士・石塚岩雄が壬生浪士を騙って大坂の今橋筋富家に押し入り借財を強要する。

6月29日
長州藩士・高杉晋作が下関に戻る。

6月29日
軍艦奉行並・勝義邦の使者として福井藩邸を訪れ監察・村田巳三郎と面談する。

6月29日
坂本乙女宛書簡


カスタム検索




スポンサーサイト
別窓 | 文久3年(1863) | コメント:0 | トラックバック:0
京都越前藩邸へ
2013-05-27 Mon 17:14
おっす龍馬ぜよ。今年は文久3年、29歳になったぜよ。

5月27日、京都の越前藩邸を訪ねて側用人の中根雪江さんと面会したぜよ。

諸外国からの干渉を排除する為国内の意思を統一するには何としても慶永公の尽力が必要じゃきに。
今こそに上京すべきじゃと。
中根さんに藩への積極的な働きかけを依頼したぜよ。


二十七日
同日、土藩坂本龍馬来る。
中根靱負面会して時事を談ぜしに、坂本過般、橋、水、二候鎖攘の命を奉じて東下せられけれど、事行ハれず。 此節巳に引籠り居らるゝ由。
春嶽公の御意見ハ最早行はるべきの機なり。
就而ハ此際、速ニ御上京御尽力ある様、云々申しき。

(『続再夢紀事』)


カスタム検索




別窓 | 龍馬のブログ | コメント:0 | トラックバック:0
中島名左衛門
2012-08-14 Tue 20:33
中島名左衛門

生:文化14年(1817)
没:文久3年(1863)5月29日
洋式砲術家
正五位

略歴

文化14年、肥前国南高来郡守山村にて庄屋・中村正令の三男として生まれる。

天保3年、西洋砲術を学ぶため長崎に行く。

町年寄・高島秋帆の家来となり、出島に赴き砲術の講義を受ける。

町年寄・久松家の執事・中島名左衛門の養子となり襲名する。

安政2年、砲術師範となり長崎地役人及び諸藩士に砲術を教授する。

文久元年、豊後府内藩に招聘される。

文久3年、長州藩に招聘され下関付近の測量と砲台構築にあたる。

文久3年5月29日、下関外国船打払いに慎重論を唱えたため主戦論者により暗殺される。47歳

墓所:長崎市東小島町の正覚寺
墓所:山口市椿郷の光福寺
墓所:下関市新地の妙蓮寺


カスタム検索




別窓 | 未分類 | コメント:1 | トラックバック:0
田中新兵衛
2012-08-14 Tue 15:49
田中新兵衛

生:天保3年(1832)
没:文久3年(1863)5月26日
薩摩藩士

略歴

天保3年、鹿児島にて商人の子として生まれる。

示現流を独学で身につけ、森山新蔵から士分の株を買い与えられる。

文久2年、上京する。

文久2年7月20日、九条家家士・島田左近を京都木屋町通二条善導寺前にて暗殺する。

文久2年、土佐藩士・武市半平太と義兄弟の契りを結ぶ。

文久2年閏8月20日、志士・本間精一郎を京都木屋通四条上ル東側にて暗殺する。

文久2年9月23日、京都西町奉行所与力・上田助之丞、渡辺金三郎、京都東町奉行所与力・大河原十蔵、同心・森孫六を江州石部宿にて岡田以蔵らとともに暗殺する。

文久2年5月20日、国事参政、左近衛権中将・姉小路公知が御所朔平門外巽の角(猿ヶ辻)にて暗殺される。

文久3年5月26日、西町奉行所にて公卿・姉小路公知暗殺容疑の取調べ最中に自刃する。32歳

墓所:京都市東山区の東福寺塔頭即宗院


一口メモ
肥後の河上彦斎、土佐の岡田以蔵、薩摩の中村半次郎らと共に四大人斬りとされ「人斬り新兵衛」と称される。


カスタム検索




別窓 | 未分類 | コメント:0 | トラックバック:0
朔平門外の変
2012-08-14 Tue 15:03
朔平門外の変

文久3年5月20日、国事参政、左近衛権中将・姉小路公知が御所朔平門外巽の角(猿ヶ辻)にて尊攘派志士により暗殺された事件。


経緯

5月20日深夜、朝廷内での議論を終え、三条実美と共に御所東側の公卿門(宜秋門)を出て三条は南から東へ回って、姉小路は北から東へ回って帰路についた。
三条は土佐藩山内家の付き人の護衛により南から東へ回って建春門の南を東へ進んでいると怪しい者3、4人が三条を害せんとする様子だったが護衛が厳しく姿を消した。
三条は姉小路の身を案じ御供の丹羽出雲守他2名を差し向けた。
姉小路は近習の吉村右京、鉄輪勇と下僕4人供を従え、御所西北角を東へ折れ朔平門を猿ヶ辻に差し掛かった時突然手裏剣が飛来して、吉村の足に突き刺さった。
すると3人の賊が太刀を振りかざし姉小路の肩先から咽喉にかけて切り掛け重傷を負わせた。
姉小路は「太刀を持て」と叫んだが、太刀を持っていた鉄輪はその場から逃走し姿を消していた。
姉小路は二、三度「太刀を」と叫ばれたが止む終えず、扇子で太刀を受け流し「右京、右京」を叫ばれた。
姉小路は賊が切りつける刀の柄を握り締めると、吉村は足の怪我を物ともせず刀を抜き斬りかけ、賊を逃走させた。
逃走する賊を吉村は追ったものの足に怪我をしており、姉小路の安否も気にかかったので現場に戻り、倒れていた姉小路を自邸に連れ帰った。

亥五月二十日夜四ツ時頃、姉小路少将公知朝臣、近習二人、僕二人召し連れられ、禁廷より退出のみぎり、御築地内朔平門前を通り懸けられ候折柄、樋柵の辺より狼藉者三人出合い、いずれも一同に白刃を振るいて、左右より少将殿目掛け切りて懸かり、一人は少将殿の右 より を懸けて切り付ける。
また、左よりも咽の辺を切り付ける故、少将殿も不意の事故驚き給い、太刀を持てよと呼ばわり給うを、太刀持ちの近習金輪勇、太刀を持ちながら逃げ去り、二人の僕も逃げ去り、左の方に付き添いたる近習吉村右京すぐさま抜き合わし、曲者に渡り合い切り結ぶ。
一人の曲者は少将殿の腰を目懸け切り付ける時、少将殿扇子にて避けらる。
その扇子、二つに切れ、少将殿の横腹を切り込む。
少将殿、深手を負われ、かの曲者の刀の中柄を聢と取らる。
この時、右京は曲者を追い散らし立ち帰り、この体を見て、すぐさまかの曲者の腰の辺りを健かに切り付ける故、曲者手ゆむところを少将殿、その刀を奪い取らる。
(『癸亥秘記』)


三条の命で駆けつけた丹羽に姉小路は三条殿の無事を喜び、「たとえ自分は死んでもその魂は長く留まって国家を護り奉ると」と言われた。
丹羽は三条邸に戻り、このことを復命、三条は早速医師の大町周防守・杉山出雲守・安藤精軒・近藤一綱・吉田中亭・海野貞治らを手配し見舞ったが深手により亡くなった。

 三ヶ処の手疵、面部鼻下一ヶ所長さ二寸五分許、頭蓋骨些欠損し斜に深さ四寸、胸部左鎖骨部一ヶ所長さ六寸許深さ三寸許、脈微細に付、衆医示談之上、甘硝、石精、磠砂、揮発精等相用い、連日半身浴、縫合術相行、針数二十八、尚又周防守家法養栄湯等相用候得共、何分深手急所之儀、養生相叶わず候事。
(『島津家国事鞅掌史料』)


翌日死亡を伏せる為、本人名義で遭難届けが提出される。

昨夜亥の刻頃、退出懸け朔平門東の辺にて武士体の者三人、白刃をもって不慮に狼藉、手疵相負い、逃げ去り候に付き、ただちに帰宅、療養仕り候。
 ただし、切り付け候刀は奪い取り置き候。よってこの段、御届け申し入れ置き候えば、急に御通達、厳重御吟味願い入れ存じ候。以上。
                   姉小路少将

(『七年史』)


何ぞ図らん同月二十日公知刺客の奇禍に罹らんとは、此の日公知参内、朝議ありて激論に及び、夜に入りて退朝し、其の朔平門外に来るや、月未だ東山に出でず、四顧朦朧たり。
覆面せる刺客、不意に溝の中より躍り出で、刀を揮ひて公知の肩先を斬る。
公知咄嗟し、従臣金輪勇を呼びて太刀を索む。
勇巳に逃れ去る。
他の従臣吉村右京、抜刀して其の賊を逐ふ時、更に二賊あり、暗中より公知を囲み撃つ。
一刀横に面部を払はれ、耳より口を傷く。
公知屈せず、笏を以て之を防ぐ。
右京急を見て返り救ひ、其の賊と闘ふ。
賊忽ち刀を投げつけ逸し去る。
右京急に公知を扶け、其の言に従ひ自邸に帰るや、公知「枕」と呼びて、気を緩むると共に絶息せり。

(『維新土佐勤王史』)


     文久亥五月
姉小路様御参殿之御帰ニ三条日野御門近ニ而御別被成候所、一人何者共不知刀以而、姉小路様目かけ切而かかり候けり候所、姉小路様右之者を手取ニし候所、刀をす而にげ候様子、又一人切かけ申候所、先之者刀ニ而切付候バ、此もにげ候。
尤姉小路様ハ先の者ニ首二刀、むね一刀切られ申候故、くせ者ニきずを付候事出来不申候。
姉小路様家来次者を以行き帰見れバ、又一人来而切合ニ及申候故、家来大音ニ而しかり候へば、次の者ニげ申候。
初之者の刀持家来かたにうちかけ帰候所、御居次ニ而まくら以こいと仰られ候。
まくらすけ其ままいきは御たへなされ候。

(坂本龍馬『雄魂姓名録』)


昨夜四ツ時、姉小路殿退朝の折、御築地の辺にて、何者やらむ、刃を振ふて胸間をさして逐てんすと云。此人朝臣中の人物にて、大に人望ありしが、何等の怨にやよりけん、此災害に逢はれし。小子輩此卿に附きて、海軍興起より、護国の愚策、奏聞を経て、既に御沙汰に及びしもの少なからざりしに、実に国家の大禍を致せり。歎息愁傷に堪へず
(勝海舟『幕末日記』)


将軍が軍艦で巡見すると云うことで、姉小路少将は大樹に随従して和田岬の方に検分に参ったのであります。
その時、勝麟太郎、今の勝安芳氏は無謀の攘夷は出来ぬと云う事で、姉小路に説いたと見えて、その時、帰って来てから鋭鋒が挫けた都合で、轟武兵衛なり武市半兵太などは、姉小路様は幕府に籠絡されたとか云いましたが、その時、大なる砲丸を二つ御土産に持って帰って、この丸が割れて飛ぶので、軍艦はこういうもので、丸はこういうものである。
充分にこの方の要害が出来ぬから危ないと云う事であります。
それから鋭鋒が鈍った。:::
神戸から帰って十日ばかり経つと、姉小路は暗殺に出合うたのである。

(東久世通禧談『史談会速記録』)


カスタム検索




別窓 | 未分類 | コメント:0 | トラックバック:0
| 龍馬がブログ | NEXT
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。