京都守護職
幕末期に政事総裁職・将軍後見職と共に新設され、京都市中の治安維持及び御所・二条城の警護を目的とした。
京都守護職は京都所司代・京都奉行所を傘下に置き、幕臣により結成された京都見廻組も配下とした。
後には守護職御預かりとして新撰組をその支配下に置き治安の維持に当たらせた。
文久2年、京都には尊王攘夷の志士が集まり治安の悪化が懸念されていた。
京都には治安維持の為に京都所司代が置かれていたが既に所司代だけでは手に負えず、その上に最高機関として守護職を新設した。
幕府の権威を示す為強力な大名から選出することになり、越前福井藩主・松平慶永または会津藩主・松平容保のどちらからか選ぶことに決した。
しかし、松平慶永は政事総裁職に任命されることとなった為、松平容保が貧乏くじをひくこととなった。
当時の会津藩は藩財政の疲弊と京都からの遠地また、容保自身が病弱な体質ということもあり、頑なに就任を固辞していたが、松平慶永から会津藩祖・保科正之の家訓
『
会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない』
を引合いに出され、渋々承諾するに至った。
また守護職を拝命するにあたっては、家老の西郷頼母、田中土佐、横山主税らは、「このような時に就任するとは火中の栗を拾うようなもの」と強く反対されるが容保の意は変わらず、ついには家臣も「
君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と相擁して泣いたといわれている。
関連史跡
京都守護職本陣跡(黒谷金戒光明寺)
京都守護職屋敷跡(現・京都府庁)
京都守護職正門(現・京都国際ホテル南)
京都守護職屋敷門(現・平安神宮バス用駐車場)