龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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(天誅)家里新太郎
2011-11-19 Sat 22:56
文久3年(1863)5月20日、尊攘派志士から公武離間活動をしていると誤解され、京都にて姫路藩士・伊舟城源一郎、江坂元之助、江坂栄次郎、松下鉄馬、市川豊次らにより暗殺される。

一、当町内千切屋重助借家、儒者家里新太郎と申す三十七歳になり候者方へ、昨夜九ツ時分、見知らぬ帯刀人三、四人罷り越し、理不尽に真太郎首切り取り、持ち帰り、扇子に別紙の通り書き認め残し置き候に付き扇子持参、この段、御断り申し上げ奉り候。以上。
  亥五月二十日
            年 寄  彦兵衛
            五人頭  勘右衛門

(『町年寄彦兵衛届書』)


                    家里新太郎
この者、姦佞の性質をもって儒者と称し、上本を業とし、書画を売買致し候儀はなお小罪に候。
幕府の吏人に内通し、名教を乱し、正義を敗り、公武離間の計を廻らし候段、不届き候。
先達て逃げ去り候ところ、またまた立ち帰り候は、自ら天誅を招き候もの也。
よって、ついに残戮し、その余の奸曲罪魁をこらすもの也。
   五月二十日

(『東西紀聞』)


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家里新太郎
2011-11-19 Sat 22:05
家里新太郎

生:文政10年(1827)
没:文久3年(1863)5月20日
儒者


略歴

文政10年、伊勢国松坂にて近藤平七の生まれる。

天保8年、叔父の儒家・家里悠然の養子となり家督を継ぐ。

小浦広名、鷹羽竜年、斎藤拙堂につき儒学を学ぶ。

嘉永元年、江戸に出て諸国の士と交わり、世古格太郎と共に尊皇攘夷論を唱える。

安政2年、京都に入り梁川星巌、頼三樹三郎、藤森弘庵らと奔走する。

安政の大獄から逃れ、紀州藩に対し志士の探索の緩和を献策する。

文久3年、尊攘派志士から公武離間活動をしていると誤解され、京都にて姫路藩士・伊舟城源一郎、江坂元之助、江坂栄次郎、松下鉄馬、市川豊次らにより暗殺される。37歳


一口メモ
養子先となった家里悠然は姉の嫁ぎ先である小林家からも養子を迎えている。後の壬生浪士組士の家里次郎である。


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大久保次右衛門
2011-11-19 Sat 17:18
大久保次右衛門

生:寛政6年(1794)
没:文久3年(1863)5月19日
薩摩藩士


略歴

寛政6年、薩摩藩士・大久保正左衛門の三男として薩摩国鹿児島城下高麗町にて生まれる。

文政4年、兄の大久保利建の養子として家督を継ぐ。

文政10年、沖永良部島代官付役を務め、沖永良部島に赴任。

文政12年、任期満了につき鹿児島へ戻る。

文政13年、長男・利通が生まれる。

天保8年、再び沖永良部代官付役を務め、沖永良部島に赴任。

嘉永2年、お由羅騒動(高崎崩れ)に連座し捕らえられる。

嘉永3年、喜界島に流される。

安政元年、罪を許される。

安政2年、鹿児島に戻る。

文久3年、死去。70歳

墓所:東京都港区の青山墓地


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坂本乙女宛書簡
2011-11-19 Sat 16:37
此頃は天下無二の軍学
者勝麟太郎という
大先生に門人となり、ことの
外かはいがられ候て、先
きやくぶんのよふなものに
なり申候。ちかきうちにハ
大坂より十里あまりの地ニて、
兵庫という所ニて、おゝきに
海軍ををしへ候所を
こしらへ、又四十間、五十間
もある船をこしらへ、
でしどもニも四五百人
も諸方よりあつまり
候事、私初栄太郎
なども其海軍所
に稽古学問いたし、
時々船乗のけいこもいたし、
けいこ船の蒸気船
をもつて近々のうち、
土佐の方へも参り申候。
そのせつ御見にかゝり可申候。
私の存じ付ハ、このせつ
兄上にもおゝきに御どふい
なされ、それわおもしろい、
やれやれと御もふし
のつがふニて候あいだ、
いぜんももふし候とふ
り軍サでもはじまり候時ハ
夫までの命。ことし命
あれバ私四十歳に
なり候を、むかしいゝし
事を御引合なさ
れたまへ。すこしエヘン
がをしてひそかにおり申候。
達人の見るまなこハ
おそろしきものとや、
つれづれニもこれあり。
猶エヘンエヘン、
                     かしこ
        五月十七日       龍馬
          乙大姉御本

  右の事ハ、まづまづ
あいだがらへも、すこしも
いうては、見込のちがう
人あるからは、をひとり
ニて御聞おき、
        かしこ。


解説

文久3年5月17日付、福井へ向かう途上で書かれた書簡で兵庫に海軍操錬所を設立することを報告している。

前回の手紙では勝海舟の「弟子」と書かれていたが今回は「客分のようなもの」と身分があがっている。
当時最大級の軍艦「順動丸」でも全長が四十間(約73メートル)であるのに、それ以上の軍艦を製造することや、弟子が四、五百人もいるなど「アザの法螺」(武市半平太評)の面目躍如といったところか。
文中の「栄太郎」は龍馬の長姉・千鶴の長男で後の高松太郎のことである。

文末の
達人の見るまなこハおそろしきもの
とは吉田兼好の随筆「徒然草」の中から
達人の人を見る眼は、少しも誤る所あるべからず
を引用して少しは学のある所も示している。

ようするに勝海舟から一目置かれる現状に「すこしエヘンがを」をしてさらに「猶エヘンエヘン」と誇らしげに語っている。

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福井へ
2011-11-18 Fri 21:42
おっす龍馬ぜよ。今年は文久3年、29歳になったぜよ。

5月16日、神戸に造る海軍塾設立の資金が不足している為、勝先生の使いで福井の松平慶永公に援助をお願いする為出立したぜよ。

福井では政事顧問の横井小楠さんを訪ね慶永公への面会を斡旋してもらったぜよ。

慶永公に謁して、
攘夷を実行することは我国の浮沈にかかわること。
神戸海軍所の設立を急ぎ人材を育成し海軍力をつければ外国からの侮りを防げること。
海運・貿易による巨利は魅力的で先行投資をする価値があること。
だから千両程貸して欲しいとお願いしたぜよ。

すると慶永公は快く貸してくれたぜよ。


その後数日間横井さんの寓居に滞在していた時、藩士の三岡八郎さんが訪ねてきて初めて面会したぜよ。
この三岡さんは福井藩の財政改革を成功させたなかなかの人物で、意気投合して共に酒を飲み、思わず土佐の国歌を披露したぜよ。


龍馬君我藩ニ来遊、小楠横井翁ノ客寓ヲ訪ハル。
余亦偶相会シ、共ニ与ニ時事ヲ討論シ、談数刻ニ及フ。
是レ余カ君ト相知ルノ初ニシテ、頗ル意気相投スルカ如シ。
爾後幣蘆ヘモ屢々駕ヲ抂ラレ、交情愈親密、互ニ心肝ヲ吐露ス。
一日薄酒共ニ酙ム。 君酒間君カ為ノ国歌ヲ高唱セラル、声調頗ル奇ナリ。
後幣藩ノ壮士輩、酒間常ニ国歌ヲ唱歌スルハ是ヲ濫觴トス。
(『由利公正氏覚書』)

昨夜忝奉存候。
然ば勝拝借高承り候処、諸生寮等迄大分広大之打立にて千両程奉願度念願と龍馬申出候。
(長谷部甚平・三岡八郎宛横井小楠書簡)

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