龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
宇郷重国
2009-11-06 Fri 18:40
宇郷重国

生:文政6年(1823)12月16日
没:文久2年(1862)閏8月22日
九条家諸大夫

略歴

文政6年、宇郷木工権頭重幸の子として生まれる。

天保2年、諸大夫に任命される。

石見守・大舎人頭・内蔵権助・伊豆守・玄蕃頭を歴任する。

安政年間、島田左近と親交を結び、和宮降嫁に奔走する。

文久2年、公武合体に奔走し攘夷派に疎まれ京都川端通東一条下ル東側にて岡田以蔵、岡本八之助、村田忠三郎らにより斬殺、松原河原に梟首される。40歳


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松平輝充
2009-11-06 Fri 17:37
松平輝充

生:文政5年(1822)4月11日
没:文久2年(1862)閏8月2日
第8代高崎藩主
従五位下、右京亮

略歴

文政5年、第8代高富藩主・本庄道昌の5男として生まれる。

文政2年、第7代高崎藩主・松平輝徳の養嫡子として家督を継ぐ。

弘化3年、家督を養子・松平輝聴に譲り隠居する。

文久2年、死去。41歳

墓所:埼玉県新座市野火止の平林寺


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政事総裁職
2009-11-06 Fri 17:04
政事総裁職

文久2年、薩摩藩国父・島津久光の圧力で実施された文久の改革により新設された役職。

前福井藩主・松平慶永を大老職に任命せよとの勅旨であったが、親藩から大老職に任命された前例がなかった為に新たに設けられた。


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文久の改革
2009-11-06 Fri 16:33
文久の改革

文久2年に薩摩藩国父・島津久光および朝廷の公武合体派公卿らに主導されて出された勅使による圧力の下行われた人事・職制・諸制度の改革。

主な内容
・若年の将軍徳川家茂を補佐する役として一橋家当主・一橋慶喜を将軍後見職に、前福井藩主  ・松平慶永を大老に任命
・京都における尊王攘夷過激派の擡頭によって悪化した治安の取り締まり
・参勤交代制の緩和
・洋学研究の推進
・西洋式兵制の導入


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京都守護職
2009-11-05 Thu 19:28
京都守護職

幕末期に政事総裁職・将軍後見職と共に新設され、京都市中の治安維持及び御所・二条城の警護を目的とした。

京都守護職は京都所司代・京都奉行所を傘下に置き、幕臣により結成された京都見廻組も配下とした。
後には守護職御預かりとして新撰組をその支配下に置き治安の維持に当たらせた。


文久2年、京都には尊王攘夷の志士が集まり治安の悪化が懸念されていた。
京都には治安維持の為に京都所司代が置かれていたが既に所司代だけでは手に負えず、その上に最高機関として守護職を新設した。
幕府の権威を示す為強力な大名から選出することになり、越前福井藩主・松平慶永または会津藩主・松平容保のどちらからか選ぶことに決した。

しかし、松平慶永は政事総裁職に任命されることとなった為、松平容保が貧乏くじをひくこととなった。

当時の会津藩は藩財政の疲弊と京都からの遠地また、容保自身が病弱な体質ということもあり、頑なに就任を固辞していたが、松平慶永から会津藩祖・保科正之の家訓
会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない
を引合いに出され、渋々承諾するに至った。

また守護職を拝命するにあたっては、家老の西郷頼母、田中土佐、横山主税らは、「このような時に就任するとは火中の栗を拾うようなもの」と強く反対されるが容保の意は変わらず、ついには家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と相擁して泣いたといわれている。


関連史跡
京都守護職本陣跡(黒谷金戒光明寺)
京都守護職屋敷跡(現・京都府庁)
京都守護職正門(現・京都国際ホテル南)
京都守護職屋敷門(現・平安神宮バス用駐車場)


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