龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
水戸藩士との面会
2008-08-03 Sun 14:40
おっす龍馬ぜよ。

安政5年11月23日に水戸藩士の住谷寅之介と大胡聿蔵が土佐の立川関まで来たけど入国出来ないから何とかしてくれと言うので、親友の川久保為介と甲藤馬太郎と一緒に会いにいったぜよ。

2人は政情を熱っぽく説いていたけど、藩に帰ってまだ間もないワシには土佐の国情や上級役人の名前など何も分からんきに。
やがて2人は土佐入国を諦めて宇和島に向かってしまったきに。

住谷寅之介は日記に次のように記しているぜよ。
「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家。事情迂闊、何も知らずとよ」
「外両人は国家のこと一切知らず。龍馬とても役人名前さらに知らず、空しく数日を費やし遺憾遺憾」

(「住谷信順廻国日記」より)



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北辰一刀流長刀兵法目録
2008-07-23 Wed 16:40
おっす龍馬ぜよ。今年は安政5年、24歳になったぜよ。

1月、千葉定吉先生から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授与されたぜよ。
長刀とは長い刀を用いる剣術と思われがちだが実際は薙刀の目録で北辰一刀流としては一番低い「初目録」ぜよ。

これは北辰一刀流剣法全書にある「薙刀組之事」に記されている型とほぼ同じ内容なので間違いないぜよ。

この目録を受ける時に定吉先生に三姉妹(佐那・里幾・幾久)の名前も一緒に書いてくれるように頼んだぜよ。先生は前例のないことだといいつつも許してくれたぜよ。




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安政諸流試合
2008-07-13 Sun 20:20
安政4年10月3日、江戸の鍛冶橋土佐藩邸で当代一流の剣豪が参加した御前試合が行われたぜよ。

相手は今武蔵といわれている錬兵館道場の島田駒之助っちゅう人で二刀流を扱うかなりの剣豪ぜよ。
しかし腕前はワシの方が上のようで、試合には勝つことができたぜよ。

ちなみに試合結果は

上段−勝ち
下段−負け

○坂本龍馬(北辰一刀流)
×島田駒之助(神道無念流)

○小村宗吉 
×山本卓馬(北辰一刀流)

○市川元江
×山岡左十郎

○松尾陳吉
×中村重吉

○永富第四郎
×佐治栄之助

○斎藤幾之助
×溝口八郎

○星野菊之助
×織田芳次郎

○村上圭蔵
×斎藤四郎助

○吉村為八郎
×松沢利太郎

○芝生運次
×福富健次(鏡心明智流)

○北村源蔵
×柑村源次郎

○桂小五郎(神道無念流)
×福富健次(鏡心明智流)

○羽島喜三郎
×久松喜代馬(北辰一刀流)

○織田芳次郎
×斎藤誠助

○奥田正五郎
×小野重四郎

○丹羽蔵人
×遠藤才助

○富田熊次郎
×石垣文次郎

○斎藤弥九郎(神道無念流)
×海部帆平(北辰一刀流)

○小川武蔵
×井上尾次郎

○石山孫六
×関根弥吉

○名古屋千吉
×安田勝馬(北辰一刀流)

○徳弘周蔵
×西脇源太郎

○松岡小太郎
×日根野弁馬

○星野菊之助
×上田馬之助(鏡心明智流)

○石島喜太郎
×菊池寅吉

○松沢和太郎
×中村案太郎

○早田千助
×上田馬之助(鏡心明智流)

○西山熊次郎
×松尾陳吉

○岩永杢蔵
×山田広衛(北辰一刀流)

○美濃部民次(北辰一刀流)
×大草藤九郎

○宮崎栄五郎
×高松直記

○富岡鉱之助
×五味政太郎

○水野伊織
×小原久之助

○加藤八太郎
×鈴木辰也

○石山孫六
×島村伊左尾

○川村雄蔵
×安達武之助

○田島左右見
×蒲生東一

以下引き分け
馬淵桃太郎(北辰一刀流)
山脇熊太郎

平尾五八
森三治

蒲生藤市
関脇作吉

村上圭蔵
村川宗助

大門鎖
真貝寅松

越山勇太郎
西山富次郎

上田馬之助(鏡心明智流)
村川宗助

相楽雄蔵
毛利荒次郎(北辰一刀流)

松沢和太郎
林鉄太郎

丸山市之助
岩堀隼之助

坂部大作
小管駒之助

甲藤馬太郎(鏡心明智流)
後藤逸作

浅田録之助
笠井吉人

桂小五郎(神道無念流)
斎田尾三郎

馬淵桃太郎(北辰一刀流)
松岡小七郎

ということになっているが、この御前試合は架空の出来事で実際には行われた事実はないきに。



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時計拾得事件
2008-07-13 Sun 16:55
安政4年8月4日、桃井道場で修業中の同郷の山本数馬が拾った時計を売り飛ばして金にした事件が発覚したぜよ。

武士としてあるまじき行為ちゅうことで、腹を切らせろと周りが騒いちゅうがこんなことで腹を切らせる訳にはいかんぜよ。

とりあえず武市さん大石さん達と話をして、蝦夷地に逃がすことにしたぜよ。


この数馬っちゅう人はワシと縁戚関係にあるぜよ。

つまり、山本覚右衛門の長男の子供が数馬の父・代七で、次男がワシの父・八平ということじゃきに。
ついでに数馬の母・佐尾子の兄の子供は富子といって後に武市半平太の女房になっちゅうがよ。


一日、山本酔ひて室町の街を行き、時計を拾ひ何気なく之を売却せしが、忽ち発覚して町奉行に捕へられ藩邸留守居役に托せらる。龍馬等大に驚き相会して山本の破廉恥を責む。某曰く、一死を以て其の罪を謝すべしと。山本默然たり。龍馬徐ろに口を開きて曰く、寧ろ一時江戸を逐ひ、他日国事に殉せしむるは如何と。満座此の理に服して山本を江戸より逐ふ。後年山本は露西亞奮教の牧師ニコライに邂逅し、其の洗礼によりて牧師となり、終に生涯を教壇に捧げたり。
(千頭清臣著 坂本龍馬伝より)




ちなみに琢磨はその後蝦夷地で沢辺家の養子となり、当時来日していたロシア正教会のニコライ神父に師事して洗礼を受け、日本ハリストス正教会の最初の信者にして、最初の日本人司祭となりました。
その後、大正2年までその命をまっとうしました。


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再び江戸剣術修行へ
2008-07-11 Fri 13:52
安政3年8月、藩庁から江戸での剣術修行の許可が出たぜよ。
10日程前には武市さんも江戸に向かっていったぜよ。

武市さんは
「御臨時御用をもって北山通り江戸表へ差し立てられ…
御用間をもって剣術修行方おおせつけられ…」
(武市家文書)

藩が不測の事態に備えて臨時に徴収し、その御用の合間に剣術修行するようにということぜよ。

9月には江戸に到着し土佐藩中屋敷に入ったぜよ。
剣術修行は前回と同じ千葉定吉道場でするぜよ。


一御預郷士坂本権平弟龍馬儀武芸修行江戸表江為罷越度依之今辰八月より来巳九月迄御暇被仰付度委細之願書差出取次方江持参也郷士牒ニ詳也
(安政三年七月二十九日『福岡家御用日記』)

一御預郷士坂本権平弟龍馬儀剣術修行として江戸表江為罷越度相済候旨取次方より申来り其段権平へ切紙を以申建郷士牒ニ詳也
(安政三年八月四日『福岡家御用日記』)

一御預郷士坂本権平弟龍馬儀劔術修行自力を以江戸表江為罷越度来九月迄御暇被仰付度願相済明廿日北山通爰許出足之旨出御切手等且江戸留守居役中江添状夫々龍馬江相渡郷士牒ニ詳也
(安政三年八月十九日『福岡家御用日記』)


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