龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
長楽寺
2008-06-30 Mon 09:01
長楽寺

長楽寺


安政元年(1854)12月、露使応接掛・筒井政憲、川路聖謨と露国使節・プチャーチンが交渉を行い、日露和親条約が締結された場所です。
また、翌2年には日米和親条約批准書の交換にも使用されました。

所在地:静岡県下田市3丁目


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日露和親条約
2008-06-29 Sun 18:43
日露和親条約

安政元年(1854)12月21日、下田の長楽寺に於いて露使応接掛・筒井政憲、川路聖謨と露国使節・プチャーチンが日露和親条約九ヶ条と附録四カ条を締結する。


日本国と魯西亜国と今より後懇切にして無事ならん事を欲して条約を定めんか為め
魯西亜ケイヅルは全権アヂュタント、ゼ子ラール、フィース、アドミラール、エフィミユス、プーチャチンを差越し日本大君は重臣筒井肥前守川路左衛門尉に任して左の条々を定む

第一条 今より後両国末永く真実懇にして各其所領に於て互に保護し人命は勿論什物に於ても損害なかるへし

第二条 今より後日本国と魯西亜国との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「ヱトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是まて仕来の通たるへし

第三条 日本政府魯西亜船の為に箱館下田長崎の三港を開く今より後魯西亜船難破の修理を加へ薪水食料欠乏の品を給し石炭ある地に於ては又是を渡し金額銭を以て報ひ若し金額乏き時は品物にて償ふへし魯西亜の船難破にあらされは此港の外決して日本他港に至る事なし尤難破船に付諸費あらは右三港の内にて是を償ふへし

第四条 難破漂民は両国互に扶助を加へ標民は許したる港に送るへし尤滞在中是を待つ事緩優なりと雖国の正法を守るへし

第五条 魯西亜船下田箱館へ渡来の時金銀品物を以て入用の品物を弁する事を許す

第六条 若し止む事を得さる事ある時は魯西亜政府より箱館下田の内一港に官吏を差置へし

第七条 若し評定を待へき事あらは日本政府是を熟考し取計ふへし

第八条 魯西亜人の日本国に在る日本人の魯西亜国に在る是を待つ事緩優にして禁錮する事なし然れ共若し法を犯す者あらは是を取押へ処置するに各其本国の法度を以てすへし

第九条 両国近隣の故を以て日本国にて向後他国へ許す処の諸件は同時に魯西亜人にも差免すへし

右条約
魯西亜ケイヅルと
日本大君と又は別紙に記す如く取極め今より九箇月の後に至りて都合次第下田に於て取換すへし
是に因りて両国の全権互に名判致し条約中の事件是を守り双方聊違変ある事なし

  安政元年十二月二十一日(魯暦千八百五十五年第一月廿六日)
                           筒井肥前守   花押
                           川路左衛門尉   花押
                           ヱフィミユス、プーチャチン   手記



概要
・日本とロシアの国境を択捉島と得撫島の間とする。
・樺太に関しては、日本人が居住した土地は日本領とする。
・ロシア船の補給の為に箱館、下田、長崎を開港する。
・ロシア領事を日本に滞在させる。


この日は新暦にすると2月7日となり、現在は「北方領土の日」に制定されている。


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河田小龍を訪ねる
2008-06-29 Sun 18:00
おっす龍馬ぜよ。今年は嘉永7年、20歳になったぜよ。

義兄の岡上樹庵さんの話によると、なんでも中浜村の万次郎とかいう人が漂流してアメリカの船に助けられてアメリカへ行っていたそうだ。
で、そん人が土佐へ帰ってきて藩の学問所に出仕しているらしい。

樹庵さんの友人で塾を開いている絵師の河田小龍ちゅう人がそん万次郎とかいう人からアメリカの話を聞いて「漂巽紀略」ちゅう書物を書き上げ藩に献上したらしい。

アメリカの話が聞きたいと思っちょったきに11月に早速城下築屋敷にいる小龍さんを訪ねに行ったぜよ。

小龍さんに会って聞いてみたぜよ。
「今日本は開国をすべきなのか、鎖国を守り続けるべきなのか」

小龍さん曰く、
「諸藩が所有する船では到底外国の船にかなうはずがない。日本は最早鎖国を続けていくわけにはいかない。全員一丸となって外夷に備えなければならない。それにはまず国防を充実させないといけない。国防にはまず蒸気船を購入し商売を充実させ利益を上げつつ航海術を身に付け、大事が起これば海防の前線に立つ海軍を育成しなければならない」

もやもやとしていた気持ちが晴れたぜよ。
これからは船の時代ぜよ。

別れ際にこう言っておいたぜよ。
「自分が船を手に入れるきに、先生は人材を送り込んでください」



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安政東海地震・安政南海地震
2008-06-29 Sun 17:42
安政東海地震・安政南海地震

嘉永7年11月に起きた東海・南海地方を震源地とした地震。

概要

嘉永7年11月4日、駿河湾から遠州灘一帯を震源とするM8.4の地震が発生。
伊豆下田などで5〜10メートルの津波が発生し、下田停泊中の露軍艦「ディアナ号」が破損する。

嘉永7年11月5日、先の地震から32時間後に、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4の地震が発生。
土佐国では11メートルの津波が発生する。

両地震による死者は3万人を越えるとされ、元号を嘉永から安政へ改元する原因となった。


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堀田正衡
2008-06-28 Sat 18:36
堀田正衡

生:寛政7年(1795)
没:嘉永7年(1854)10月12日
第2代佐野藩主・若年寄
従五位下、左京亮、摂津守

略歴

寛政7年、初代佐野藩主・堀田正敦の5男として生まれる。

文化13年、長男:正修が生まれる。

文政4年、次男:次郎(刈谷藩主・土井利祐)が生まれる。

天保3年、家督を継ぐ。

天保7年、若年寄に任命される。

弘化2年、7男:智七郎(狭山藩主・北条氏恭)が生まれる。

嘉永7年、死去。60歳

墓所:東京都港区麻布台の香林院


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岩倉獄跡
2008-06-28 Sat 17:56
岩倉獄跡

岩倉獄跡


野山獄見取図


起源
正保2年(1645)酒に酔った大組藩士・岩倉孫兵衛が道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという事件が発生、藩は野山邸に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処した。喧嘩両成敗で両家は取り潰ぶされ、士分の者を収容する上牢の野山獄、庶民を収容する下牢の岩倉獄を設置した。

海外密航に失敗した金子重輔や伏見要駕策で捕えられた入江九一・野村靖が投獄された場所。

萩市今古萩町に獄の一部が残されています。又道路を挟んで向かい側に野山獄跡があります。


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野山獄跡
2008-06-28 Sat 17:46
野山獄跡

野山獄跡


野山獄見取図


起源
正保2年(1645)酒に酔った大組藩士・岩倉孫兵衛が道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという事件が発生、藩は野山邸に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処した。喧嘩両成敗で両家は取り潰ぶされ、士分の者を収容する上牢の野山獄、庶民を収容する下牢の岩倉獄を設置した。

吉田松陰・高杉晋作が投獄されたのをはじめ藩内紛争に敗れた正義派11烈士・保守派の坪井九右衛門、椋梨藤太ら多くの藩士が処刑された場所である。

萩市今古萩町に獄の一部が残されています。又道路を挟んで向かい側に岩倉獄跡があります。


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吉田松陰への幕府裁決書
2008-06-28 Sat 16:37
幕府裁決書

嘉永7年9月18日、長州藩士・吉田松陰が起こした海外密航未遂の件につき、本来ならば重罪とすべきところを、ペリーから前途ある青年に寛大な処置を求められていたことにより、幕府は国許蟄居という軽い罪を言い渡す。

 幕府裁決書
      松平大膳大夫家来
      杉百合之助次男にて厄介致し置き候浪人                 吉田寅次郎

其の方儀近来異国船所々へ渡来致し候処、元主人方勤役中養家は兵学師範の家筋に付き別して長州海防の儀を苦心致し、佐久間修理方へ入門、西洋学砲術をも修行致し、其の後浪人(の身分に相成り候へども兼々御為筋の儀を存じ量り、且つは旧主の恩義も之れあり、旁非常の功を立つべくと心掛け候処、去夏以来異国の軍艦近海へ渡来致し候趣承るに及び、深く痛心の余、西洋へ趣き国々の風教軍備悉く研窮致すべくと、修理とも詮論に及び候処、当今の形勢彼れを知るを急務にて間謀細作を用ひ候外良策之れなく候へども、重き御国禁に付き官許は之れある間敷く、自然漂流の体に致し成し、事情探索の上立ち帰り候はば、専ら御国の御為めに相成るべき旨申し聞け、兼ての内存と符号致し、頻りに西洋周遊の念差起り、去秋長崎表へ渡来の魯西亜船へ身分を託し候か、又は漁船を雇ひ渡海致すべくと、九州筋遊歴の積りにて修理方へ暇乞に罷り候処、其の方胸間を察し送別の詩を贈り志を通じ候に付き弥弥発憤致し、長崎表へ立ち越し候へども一旦退帆後にて便を得ず、空敷く帰府致し候後、浦賀表へ亜墨利加船渡来、神奈川沖に碇泊罷り在り、退帆致すべき趣承るに及び、宿志を遂ぐべくと存じ窮め、渋木松太郎事重之助儀も同志に候とて連れ立ち横浜村へ罷り越し候処、修理主人真田信濃応接所警衛仰付けられ修理儀人数に加はり出張致し居り候に付き、通弁のため漢文にて認め置き候書翰草稿へ添削を乞ひ、重之助倶々周遊致し候へども、異船へ近寄るべき手段之れなく、其の内下田港へ相廻り候に付き、同所へ罷り越し異人上陸を見受け、右書翰並びに別啓の策を投じ置き、夜中竊に伝馬船を以て重之助一同異船へ乗込み、外国同伴相頼み候へども送り戻され候儀ども、一途に御国の御為を存じ仕り成し候旨は申立て候へども、右体重き御国禁を犯し候段不届きに付き、父杉百合之助へ引渡し在所に於て蟄居申付候。



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摂海侵入
2008-06-28 Sat 16:19
摂海侵入

嘉永7年9月、露国使節・プチャーチンが天皇のお膝元となる摂海(大坂湾)の天保山沖に突如現れる。

経緯
嘉永6年、条約締結を目的とした露国使節・プチャーチンは日本のルールに従い長崎に寄港しましたが、露使応接掛との交渉に失敗しました。しかし幕府が方針を改めて条約を結ぶ時には露国を真っ先にするとの約束をもらいました。
嘉永7年8月に箱館に寄港したプチャーチンはここで始めて半年前に米国が和親条約を締結したことをしります。
このまま江戸へ向かえばペリーの後塵を拝すことになると考えたプチャーチンは天皇のお膝元である摂海(大坂湾)へ向かうことを決意し、老中あての書簡を箱館奉行に提出します。
9月8日、プチャーチンは軍艦『ディアナ号』に乗船し、9月17日には摂海に侵入し、翌18日には天保山沖に停泊しました。
幕府に対し書状を送っていた為何らかの対処があるものと考えていたプチャーチンでしたが、箱館奉行が預かった書状を老中が確認したのが9月28日、当然大坂には何の連絡もなかった為、突然の来航に町中は大騒ぎとなりました。
その後幕府からの要請で下田へ向かい条約を締結することとなります。


一口メモ
・楽々と摂海に侵入されたことにより衝撃を受けた幕府は摂海の防禦体勢を見直すこととなり、また天皇のお膝元という事もあり、激しい攘夷運動を助長することになった。
・幕府の慌てぶりに対し庶民は好奇心旺盛で、若衆が小舟で露艦に近づくと露国人は乗船させ、菓子や砂糖を与えました。次に女子供らが訪ねるとガラスの髪飾りや指輪を与えたそうです。


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山岡八十郎
2008-06-28 Sat 14:37
山岡八十郎

生:文化13年(1816)
没:嘉永7年(1854)8月24日
福山藩士
従五位

略歴

文化13年、福山藩士・山岡源左衛門次隆の子として生まれる。

天保3年、供番に任命され、藩校・弘道館の句読師を兼務する。

天保7年、藩校・弘道館の読書掛に任命される。

大目付・郡奉行・寺社奉行を歴任する。

嘉永7年、福山藩元締に任命される。

嘉永7年、日米和親条約締結に憤慨し、藩主・阿部正弘に上書して屠腹。39歳

墓所:東京都文京区本郷の昌清寺


一口メモ

・通例ならお家断絶にもなりかねない事態であったが、阿部正弘は嗣子・敬太郎に家督相続をゆるしました。
・後年、山岡の自刃に感銘した久坂玄瑞や高杉晋作らは山岡を称える詩を作成しました。


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小栗流
2008-06-28 Sat 13:30
小栗流

小栗正信が開いた武術で剣術と和術を核とする流派。

小栗正信の弟子である朝比奈可朝が土佐藩主・山内家の家臣だった為、土佐藩内で栄え柔術指南役は小栗流で占められるようになった。

系譜
小栗仁右衛門正信−朝比奈半左衛門可長−渡辺清太夫利重−足達茂兵衛正藹−足達甚三郎正靖−日根野弁次吉賢−日根野左右馬恵吉−日根野弁治吉善

小栗流和摭語録
一、師匠とは何を厳間の苔莚 其古は人の弟子なり
一、 ○共なほ円かれや人心 角の有には障り易きに
一、 ○共一廉あれや我心 余り円きは転びやすきに
一、 身は鞠に心は和む風の所作 動く目付を権り従へ
一、 身は投げず心は投げず気は投げず 己と行む道を知るべし


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小栗流和兵法十二箇条并二十五箇条
2008-06-28 Sat 13:08
おっす龍馬ぜよ。今年は嘉永7年、20歳になったぜよ。

6月に江戸での剣術修行が終わって土佐に帰ってきたぜよ。

閏7月には小栗流中伝目録の「小栗流和兵法十二箇条并二十五箇条」を授与されたぜよ。

実は江戸では北辰一刀流を修行していたが、湾岸警備などに借り出されてまともに稽古をすることができなかったぜよ。
ところが湾岸警備に加わっている同志の中に小栗流免許皆伝者がおったきにそん人に稽古を付けてもらったがよ。おかげで帰国後すぐに中伝目録をもらえたぜよ。


小栗流和兵法十二箇条并二十五箇条
京都国立博物館所蔵



小栗流和兵法十二箇条并二十五箇条
京都国立博物館所蔵




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木下俊方
2008-06-28 Sat 12:39
木下俊方

生:文政13年(1830)10月2日
没:嘉永7年(1854)7月2日
第14代日出藩主
従五位下、主計頭

略歴

文政13年、第13代日出藩主・木下俊敦の次男として生まれる。

弘化4年、家督を継ぐ。

嘉永7年、死去。24歳

墓所:東京都港区高輪の泉岳寺


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日米和親条約付録十三条(下田条約)
2008-06-27 Fri 14:12
日米和親条約付録十三条(下田条約)

嘉永7年5月25日、日米和親条約締結後に下田・了仙寺にて締結された13ヶ条からなる付録条約。

右条約本文十二ヶ条は、帝国日本全権林大学頭、井戸対馬守、井沢美作守、都筑駿河守、鵜殿民部少輔、竹内清太郎、松崎満太郎と亜墨利加合衆国全権マテユカルブレトペルリと、嘉永七年甲寅三月三日、武州横浜村に於て為取替候事相違無之、此度議定之書面、豆州下田港に於て為取替之儀は、井戸対馬守へ委任せしめ、以後両国互に条約急度相守可申事、尤追て下田に於て取極め候条約附録は、別紙にこれを記候、
右大君の命を以て
安政元年甲寅十二月
                                            阿部伊勢守 花押
                                            牧野備前守 花押
                                            松平和泉守 花押
                                            松平伊賀守 花押
                                            久世大和守 花押
                                            内藤紀伊守 花押

日本国へ合衆国よりの使節提督ペルリと、日本大君の全権林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、都筑駿河守、鵜殿民部少輔、竹内清太郎、松崎満太郎、両国政府の為、取極置候条約附録

第一ヶ条
一 下田鎮台支配所の境を定めんか為、関所を設るは、其意の儘たるへし、然れとも亜墨利加人も、亦既に約せし日本里数七里の境関所出入するに障ある事なし、但日本法度に悖る者あらは、番兵是を捕へ其船に送るへし

第二ヶ条
一 此港に来る商船鯨漁船のため、上陸場三ヶ所定め置き、其一は下田、其一は柿崎、其一は港内の中央にある小嶋の東南に当る沢辺に設くへし、合衆国の人民必日本官吏に対し丁寧を尽すへし

第三ヶ条
一 上陸の亜墨利加人、免許を請すして武家町家に一切立寄へからす、但寺院市店見物は勝手たるへし

第四ヶ条
一 徘徊の者休息所は、追て其為旅店設くるまて、下田了仙寺、柿崎玉泉寺二箇寺を定置くへし

第五ヶ条
一 柿崎玉泉寺境内に亜墨利加人埋葬所を設け、麁略ある事なし

第六ヶ条
一 神奈川にての条約に、箱館において石炭を得へきとあれとも、其地にて渡し難き趣は、提督ペルリ承諾いたし、箱館にて石炭用意に及はさる様、其政府に告へし

第七ヶ条
一 向後両国政府において公顕の告示に、蘭語訳司居合さる時の外は、漢文訳書を取用ふる事なし

第八ヶ条
一 港取締役壱人、港内案内者三人定置くへし

第九ヶ条
一 市店の品を撰むに、買主の名と品の価とを記し、御用所に送り、其価は同所にて日本官吏に弁し、品は官吏より渡すへし

第十ヶ条
一 鳥獣遊猟は却て日本において禁する処なれは、亜墨利加人もまた此制度に伏すへし

第十一ヶ条
一 此度箱館の境、日本里数五里を定置き、其他にての作法は、此条約第一ヶ条に記す処の規則に倣ふへし

第十二ヶ条
一 神奈川にての条約取極の書翰を差越し、是に答ふるには、日本君主に於て誰に委任あるとも意の儘たるへし

第十三ヶ条
一 茲に取極置く処の規定は、何事に依らす、若神奈川にての条約に違ふ事あるとも、又是を変る事なし

右条約附録、エケレス語日本語に取認め、名判致し、是を蘭語に翻訳して、其書面合衆国と日本全権双方取替すものなり

右条約附録十三ヶ条は、帝国日本全権林大学頭、井戸対馬守、井沢美作守、都筑駿河守、鵜殿民部少輔、竹内清太郎、松崎満太郎と亜墨利加合衆国全権マテユカルブレトペルリと、嘉永七年甲寅五月廿二日、豆州下田港において為取替候事相違無之、此度規定之書面、下田港において為取替之儀、井戸対馬守え委任せしめ、以後両国互に条約急度相守可申事、

大君の命を以て
安政元年甲寅十二月
                                             阿部伊勢守 花押
                                             牧野備前守 花押
                                             松平和泉守 花押
                                             松平伊賀守 花押
                                             久世大和守 花押
                                             内藤紀伊守 花押



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了泉寺
2008-06-27 Fri 13:59
了泉寺

了泉寺


嘉永7年5月に下田に上陸したペリー一行の応接所及び幕府との交渉場所として使用され日米和親条約付録協定(下田追加条約)が締結された場所です。

境内には宝物館があり黒船やペリーの資料が展示されています。


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黒田直静
2008-06-27 Fri 13:31
黒田直静

生:文化7年(1810)3月15日
没:嘉永7年(1854)4月26日
第7代久留里藩主
従五位下、豊前守

略歴

文化7年、第5代久留里藩主・黒田直方の3男として生まれる。

文政3年、第6代久留里藩主・黒田直侯の養子となる。

文政6年、家督を継ぐ。

天保11年、大坂加番に任命される。

嘉永7年、死去。45歳

墓所:埼玉県飯能市の能仁寺


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吉田松陰拘禁之跡
2008-06-26 Thu 20:51
吉田松陰拘禁之跡

吉田松陰拘禁之跡


嘉永7年3月、吉田松陰と金子重輔が渡航を拒否され黒船から帰ろうとしたが、身元が分かる品を乗せた漁船が流されているのに気付き捕縛されるのは時間の問題だと観念し自首。長命寺に拘禁される。

現在長命寺は残されていませんが下田市立中央公民館前に吉田松陰拘禁之跡碑が建てられています。


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下田渡海
2008-06-26 Thu 20:32
下田渡海

嘉永7年3月27日夜、正確には28日午前2時ごろ、長州藩士・吉田松陰が金子重輔を従えて下田沖に停泊中のペリー提督の旗艦「ポウタハン号」に乗込み、米国への出国を試みた出来事。

経緯
27日の夕方弁天島に行くと小舟が2隻浮かんでいました。
これは好都合だと思い、一旦蓮台村の宿へ帰り、風呂に入り、夜食を摂って弁天島へ向かいました。
午後8時頃、弁天社を出てみると、潮が引いてしまい、小舟は砂浜に打ち上げられていました。
仕方ないので弁天島の祠で睡眠を取りました。
28日午前2時頃、小舟の所まで行くと潮が満ちて舟は浮かんでいました。
小舟に乗って沖へ漕ぎ出そうとすると、櫓を固定する櫓杭がありません。
そこで櫂をフンドシに縛り付けて沖に漕ぎ出しました。
「ポウハタン号」に乗船すると、ペリー艦隊の通訳・ウリヤムスと談判し出国を懇願しました。
ウリヤムスは日米和親条約の締結直後だった為、幕府の許可なく同行することは時宜的に好ましくないと判断し願いを受け入れませんでした。
柿崎に帰って来た松陰らは、うろついている間に捕縛されるよりはと考え、即座に下田番所に自首しました。


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投夷書
2008-06-26 Thu 14:05
『投夷書』

嘉永7年に長州藩士・吉田松陰がペリー艦隊に乗船して海外に渡航することを企て、渡航の趣意を知ってもらう為に書かれた書状。
3月6日に起草され、翌7日に佐久間象山の添削を受け、8日に別啓を加えて、22日に下田にて清書されました。

松陰は27日に下田の柿崎を歩いていた米国書記・スポルディングのポケットに忍ばせました。
この書状はペリー提督も読まれ、「心誠に喜ぶ」と伝えられています。

投夷書
日本国江戸府の書生瓜中万二・市木公太、書を貴大臣各将官の執事に呈す。
生等賦稟薄弱、軀幹矮小、固より自ら士籍に列するを恥づ。
未だ刀槍刺撃の技を精しくする能はず、未だ兵馬闘争の法を練る能はず、汎々悠々として歳月を玩愒す。
支那の書を読むに及んで、稍欧羅巴・米利幹の風数を聞知し、乃ち五大洲を周遊せんと欲す。
然り而して吾が国は海禁甚だ厳しく、外国の人の内地に入ると、内地人の外国に到ると、皆貸さざるの典あり。
ここを以て周遊の念勃勃然として心胸の間に往来し、而も呻吟シ跙すること、蓋し亦年あり。
幸いにして今貴国の大軍艦檣を連ねて来り、吾が港口に泊し、日たる已に久し。
生等熟観稔察して、深く貴大臣・各将官厚愛物の意を悉し、平生の念又復た触発す。
今則ち断然策を決し、将に深密に請託して貴船中に仮座し、海外に潜出して以て五大洲を周遊せんとす、復た国禁をも顧みざるなり。
願はくは執事辱くも鄙衷を察して、此の事成るを得しめられよ。
生等の能く為す所は百般の使役も惟だ命是れ聴かん。
夫れ跛躄者の行走者を見、行走者の騎乗者を見る、其の意の歆羨如何ぞや。
況んや生等終身奔走すとも、東西三十度、南北二十五度の外に出づる能はざるをや。
ここを以て夫の長風に駕し巨涛を凌ぎて、千万里を電走し五大洲を隣交するを視ては、豈特に跛躄の行走と、行走の騎乗との譬ふべきがごとくならんや。
執事幸に明察を垂れ、請ふ所を許諾せられなば何の恵か之れに尚へん。
但し吾が国海禁未だ除かれず、此の事若し或いは伝播せば則ち生等徒に追捕せらるるのみならず、刎斬立ちどころに到るは疑ひなきなり。
事或いはここに至らば、則ち貴大臣・各将官仁厚愛物の意を傷ふも亦大なり。
執事願はくは請ふ所を許し、又当に生等の為に委曲包隠して開帆の時に至り、以て刎斬の惨を免るるを得しむべし。
若し他年自ら帰るに至らば、則ち国人も亦必ずしも往事を追窮せざらん。
生等言は粗暴と雖も、意は実に誠確なり。
執事願はくは其の情を察し其の意を憐み、疑ふことを為すなかれ、拒むことを為すなかれ、万二・公太同じく拝呈す。
     日本嘉永七年甲寅三月十一日

 別啓
本書内に開列懇請する所は生等之れを思ふこと累日、多方に策を求む。
横浜に在りては曽て商漁の船隻を僦ひ暗夜に乗じて貴船に近づかんと欲す、而れども地方の巡邏甚だ密、官船を除く外は一切近づき前むを許さず、之れが為めに踟蹰す。
貴船当に此の地に来るべしと聞き、期に先んじて来り待ち、一小舟を掠めて以て貴舟に近づかんと欲すれども未だ能はず。
因つて願はくは貴船の各大員合議して、請ふ所を許允せられなば、則ち明夜人定る後脚船一隻を発し、柿崎村海浜の人家なき処に至りて、生等を迎へられよ。
生等固より応に約に先んじて該地に至り相待つべし。
切に約信違ふことなく、生等の望む処に副はんことを祈る。
     三月十一日                                 松陰在下田



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弁天島(松陰踏海の地)
2008-06-26 Thu 13:29
弁天島(松陰踏海の地)

弁天島


嘉永7年3月に吉田松陰と金子重輔が下田沖に投錨している黒船に乗船を企てて潜伏した柿崎弁天島の祠が残っています。

祠の近くには『踏海の朝』像があります。

「踏海の朝」



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また近くにある三島神社境内にも吉田松陰像があります。

吉田松陰像(三島神社)



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