龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
内藤政文
2008-07-27 Sun 20:51
内藤政文

生:文政13年(1830)6月13日
没:安政5年(1858)9月30日
第6代挙母藩主
従五位下、山城守

略歴

文政13年、第13代彦根藩主・井伊直中の子、井伊中顕の3男として生まれる。

嘉永4年、第5代挙母藩主・内藤政優の末期養子として家督を継ぎ、従五位下・山城守に任命される。

嘉永5年、馬産を奨励する。

安政2年、安永川の修築をする。

安政2年、長男:内藤文成(挙母藩主)が生まれる。

安政5年、死去。29歳

墓所:東京都港区高輪の光台院


一口メモ

大老・井伊直弼の甥にあたります。


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西洋歩兵論
2008-07-27 Sun 20:28
西洋歩兵論

安政5年9月、長州藩士・吉田松陰が現行の和流兵法を破棄し西洋の組織的歩兵制を採用する事、又歩兵には足軽以下農兵をあてることを主張した論文。
この考えは松陰死後、門下生の高杉晋作が奇兵隊を組織する根拠の一つとなっていく。


西洋歩兵論
西洋歩兵の得失、世間色々議論あるよし。
且つ其の挙げて是れを此方に施行するにも数々障害あるやに聞き及べり、余が素論と大いに異なり。
余が素論の如くなれば、歩兵の得たる、孫武及び本朝諸家の兵法已に詳かに其の理を弁ず。
而して挙げて是れを此方に施行する、何の難きことか是れあらん。
請ふ、詳かに是れを弁ぜん。
孫子曰く、「兵は正を以て合ひ、奇を以て勝つ」と。
千古の合戦、千変万化と雖も、皆此の一句に外なること能はず。
正は堂々正々の陣法にて、是れ節制練熟の兵に非ざれば、是れに当ること能はず。
奇は紛々紜々の戦勢にて、是れ精悍剛毅の兵に非ざれば、是れを任ずるに足らず。
西洋人、歩兵を以て軍の骨子となす、是れ孫子の所謂正なり。
其の他騎兵・砲兵等は所謂奇なり。
余因つて思ふ、正は西洋歩兵の節制をとるに如かず、奇は本邦固有の短兵接戦を用ふるに如かずと。
扠て其の正を以て合ふと云ふは、敵にも正あれば、我れも亦正を用ひて、相対持して敵と抗衡する心なり。
譬へば角抵する者、両人対々して、しつかり組み合ひたる如き、是れ正を以て合ふなり。
奇兵は譬へば傍らより小股を取るが如し。
而して正を以て合ふ所手強からでは、小股も取り難く、奇の働き、勝の手段は決して出来ざることなり。
西洋人等日夜刻苦精練する所全く爰にあり。
彼れ已に是れを刻苦精練して、我れ茫然意となさず、只今の神器陣位の遊戯三昧の事にて日を竟へては、勝算断じてあることなし。
中古戦国の兵、最も甲・越を推す。
此の時に当りて天下の兵皆精、然れども二氏其の最もたる所以は節制最も精しきを以てなり。
二氏中、甲兵最も其の精なる者なり。
然れども余反復其の精なる所由を考ふるに、一番槍・槍脇・後殿の三功を重んずるのみ。
其の他に奇術あることなし。
両軍相対するに当りて、隊長真先に前み駆れ駆れと罵り立つると、斉しく一隊の士吾れ劣らじと、一番槍に心掛け、或いは槍脇を詰め一番槍を輔助し、一隊の形、杉形又は鋸歯の如くなりて、敵張り掛れば我れ靡き、彼我の間ゆらゆらとして、其の容子を脇より見れば、譬へば、屏風へ風の吹きかかる如きものなり。
其の時の勝負は第一、平生士卒の練不練にあることにて、若し不練の兵ならしめば、其の時一溜りもなく靡け靡けて散乱するなり。
若し練兵ならば、一靡け二靡けの内に、次第次第に備色引立ち、足並しまり、じりりじりりと敵より上槍になるなり。
第二は隊長たる者、大の眼を開き敵味方を見通し、場合を見て駆込むか、軍勢を荒らかに罵詈するかにて、忽ち上槍になるなり。
敗軍崩れ際に臨みて、各々踏留り、小返・守返・後殿等にて大崩に至らざるなり。
此の界の味を篤と暁得すれば、甲・越節制の味も分り、西洋歩兵、軍の骨子たるの味も能く分るなり。
凡そ兵道を発明せんと欲せば、瞑目静座身を戦争の地に置き是れを洞観せざれば、終身韜鈴に渉猟すとも、何ぞ其の妙処を知ることを得んや。
今の戦は猶ほ古の戦のごとし。
今にても西洋人と陸戦に対持することあらば、彼れ其の精錬の節制を以て我れに加へんに、我れ亦節制を精錬し相敵するに足るべくして、初めて戦を謂ふべし。
若し乃ち隊長の機を相て、闔闢分合、正中許多の小正小奇をなし、強所を以て弱所を破り、堅所を以て瘕所を撃つに至りては、素より隊長の才気何如に存するなり。
或ひと問ふ、果して其の言の如くならば戦勝期すべきや。
曰く、否。
是れ正を以て合ふ事にして、敗れざるの道なり。
戦勝の道に至りては、全く奇を以て勝つ上にあることなり。
已に正を以て合ふ上は、精兵の弓銃士又短兵隊等或いは散り或いは集まり、或いは五人七人も合し、或いは一五二十も合し、敵の横を衝き後を破り、又其の色めくに乗じては短兵三五十も一斉に衝き掛り、或いは大砲を用ひて敵の中軍後勁を粉砕し抔する類、奇を以て勝つ法なり。
今余が西洋歩兵を学ぶことを論ずるを以て、我が国固有の得手を失はんことを患ふるものあり。
大いに是れ事を解せざるものと云ふべし。
今余が西洋歩兵を用ふるは即ち我が国固有の得手を自在に使用せんとの手段なり。
然れども吾れ常に恐る、正は教ふべく奇は教ふべからず。
今教ふべきの正すら教へず、是れを以て奇を用ひんと欲す、是れ今日火燵兵法の危ふき所なり。
奇已に教ふべからざれば、姑く正を教へて、正中に就きて自ら奇を悟らしめんに若くはなし。
或るひと曰く、子が正を以て合ひ、奇を以て勝つの説にて西洋歩兵を学びて、我が国の固有を失ふに非ざるの理は已に悟れり。
敢へて是れを此方に施用するの説を聞かん。
曰く、是れ実に易々たるのみ。
西洋歩兵、予と雖も未だ其の真箇の大繰を観ることを得ず。
然れども其の理、上に弁ずるが如し。
今是れを此方に施行せんとするに、未だ其の師長たるべき者をみず。
且つ一、二人の能く及ぶ所に非ず。
又容易に今の神器陣をも更張せんなどは障害なきにしも非ず。
今大略を以て云はば、大番士中三十人を選んで大に歩兵を精錬させ、是れを師長として足軽以下農兵に至るまで一統教演せしむべし。
是くの如くなれば不日に精兵となるべきなり。
其の他平士は益々短兵接戦を督責せしむべきなり。
然れば吾が邦固有の得手は一塩精錬に至るべし。
尤も三十人と云ふは真の手初めを云ふなり。
其の下手の順序を詳かに云はば、少壮の士三十歳以下二十歳左右の士にて志あり気あり才ある様の人物を選び、六ケ月を期し大坂岡村貞次郎へなりとも遣はし、業成りて帰らば第一に御奥御馬場に於いて是れを考試し、彌々実用に適すべきを御見定めの上、毎日同処にて平士少壮の者及び足軽・御中間等を時刻を分ちて訓練し君公時々御観臨遊ばされ、是くの如くすること三十日にも及ばば、其の得失、弁を待たずして一国の通論となるべし。
是れより少壮中の人物を選び、漸々に師長の員を増し農兵をも訓練し、又大坂・江戸其の外諸藩にて盛んに歩兵の行はるる処々へ、十人十五人を一組として修行に差越され、益々増隆に趣く様に致したきことなり。
此の法行はるる一年計り、然る後備定の大令を下布せば絶妙の策ならん。
備定の大略は、八手へ各々足軽・御中間・農兵等を付属し、其の内の役付は大番以下の壮士を以て是れに充つべし。
是れ正兵にして、其の余の平士は皆武具を提げ専ら接戦を心掛くる、是れ奇なり。
此くの如くなれば、前に論ずる所の正を以て合ひ、奇を以て勝つの論、思ふ様に行はるべきなり。
是れより以上は大将の方寸にあり、吾が予め論ずべき所に非ず。
   付論
 孫子虚実を論じて碬と卵とを以て喩とす。
是れ今神器陣と西洋歩兵とに甚だ善く当れり。
神器陣は銃丸発機一斉ならずして、敵勢を挫くに足らず。
隊形単疎にして敵騎に乱さるること必せり。
是れ甚だ卵の空虚砕き易きに似たり。
西洋歩兵は是れに反す、碬の実に似たる所以なり。
而して余又是れを石と砂とに比す。
今試みに一握の砂を散じて敵を撃つ、其の中る所一つも傷つく所なし。
又一拳石を擲たば其の中る所肉を破るに足らん。
是れ洋兵と今の神器陣との得失なり。
洋兵を学びて未だ成らず、其れ尚ほ瓦磚に比すべし。
況んや精錬日に其の功を加へば、何ぞ鋼鉄となすに難からんや。
古人云はく、「兵は精なるを貴ぶ、衆きを貴ばず」と。
碬卵・砂石・瓦鉄の比喩を味はば、精衆の得失甚だ明白なり。
其の説甚だ長し、今其の大略を云ふこと右の如し。
     戌午九月念四夜              二十一回猛士稿


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梅田雲浜邸跡
2008-07-26 Sat 21:14
梅田雲浜邸跡

梅田雲浜邸跡

安政5年9月7日夜、伏見奉行・内藤豊後守の手によってここで捕えられました。

梅田の家宅は捜索されましたが、新和歌集1冊と左伝5,6冊以外に目ぼしいものは見つからなかったそうです。
これは、門弟で長州藩士の赤根武人が梅田逮捕の際同士間の往復書簡を焼いて禍が他に及ぶことを防いだ為です。

所在地:中京区烏丸通リ御池上ル東側、道路に面して石碑があります。


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浅野慶熾
2008-07-26 Sat 20:59
浅野慶熾

生:天保7年(1836)11月12日
没:安政5年(1858)9月10日
第10代広島藩主
従四位上、侍従、上総介、安芸守

略歴

天保7年、第9代広島藩主・浅野斉粛の長男として生まれる。

安政5年、家督を継ぐも半年足らずで死去。23歳

墓所:広島県広島市の神田山墓地


一口メモ

名君と言われた薩摩藩主・島津斉彬、福井藩主・松平慶永らからも一目置かれていた。


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梶八次郎
2008-07-26 Sat 20:42
梶八次郎

生:文政6年(1823)
没:安政5年(1858)9月8日
水戸藩士
従五位

略歴

文政6年、水戸藩士・梶安広の3男として生まれる。

弘化元年、藩主・徳川斉昭の雪冤に尽力する。

安政5年、前途を悲観し自刃。36歳

墓所:茨城県水戸市松本町の常盤共有墓地


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梁川星巌
2008-07-26 Sat 20:28
梁川星巌

肖像・梁川星巌

生:寛政元年(1789)6月18日
没:安政5年(1858)9月2日
漢詩人
正四位

略歴

寛政元年、美濃国安八郡曽根村にて生まれる。

文化5年、江戸へ遊学し、儒学者・山本北山に師事する。

文政3年、女流漢詩人・紅蘭と結婚する。

文政5年、紅蘭と共に西遊する。

文政10年、京に上り頼山陽、日野資愛らと交友する。

天保3年、江戸に下り、佐久間象山と国事を論じる。

弘化3年、京に上り鴨川沿いに寓居を構える。

嘉永元年、寓居を華頂山の北に移す。

嘉永2年、再び鴨川沿いに移り鴨沂小隠と称し、勤王志士らと交わる。

安政5年、条約調印に憤慨し、梅田雲浜と共に親王、公卿に建言し攘夷の密勅を水戸藩に降下させる。

安政5年、老中・間部詮勝の入京に際し、詩25首を賦して諌止せんとする。

安政5年、コレラにより死去。70歳

墓所:京都市左京区の南禅寺塔頭天授庵


一口メモ

星巌の死後に起こる安政の大獄により、多くの同志が拷問を受けたため京都の市民から「さすが星巌、詩に(死に)上手」と賞せられる。


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野宮定祥
2008-07-26 Sat 20:13
野宮定祥

生:寛政12年(1800)1月15日
没:安政5年(1858)9月2日
公家
権大納言

略歴

寛政12年、左近衛権中将・野宮定静の子として生まれる。

天保6年、参議に任命される。

天保11年、東宮統仁親王(のちの孝明天皇)に近侍する。

嘉永元年、権中納言・議奏に任命される。

安政元年、権大納言に任命される。

安政5年、死去。59歳


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幕末用語・人名辞典(は行)
2008-07-26 Sat 14:08

幕末江戸三大道場
幕末の四賢侯
浜松騒動
蛮社の獄
蕃書調所

一橋派

不時登城・押懸登城
文武稽古万世不朽の御仕法立気附書


北辰一刀流
戊午の密勅
戊戌夢物語



橋本左内 (はしもと さない) 福井藩士
蓮田市五郎 (はすだ いちごろう) 水戸藩士
蓮田東三 (はすだ とうぞう) 水戸藩農民
長谷川速水 (はせがわ はやみ) 勤皇家
蜂須賀斉昌 (はちすか なりまさ) 第12代徳島藩主

久松勝善 (ひさまつ かつよし) 第12代伊予松山藩主
土方雄嘉 (ひじかた かつよし) 第11代菰野藩主
一柳末延 (ひとつやなぎ すえのぶ) 第9代小野藩主
ヒュースケン (ひゅーすけん) 米国総領事館通弁官
広岡子之次郎 (ひろおか ねのじろう) 水戸藩士

藤田東湖 (ふじた とうこ) 水戸藩家老
古川主馬之介 (ふるかわ しゅめのすけ) 水戸藩田楽師


坊城俊明 (ぼうじょう としあきら) 公家
保科正丕 (ほしな まさもと) 第9代飯野藩主
細川斉護 (ほそかわ なりもり) 第10代熊本藩主
堀田正敦 (ほった まさあつ) 初代佐野藩主・若年取
堀田正民 (ほった まさたみ) 第6代宮川藩主
堀田正衡 (ほった まさひら) 第2代佐野藩主・若年寄
堀田正義 (ほった まさよし) 第7代宮川藩主
堀利煕 (ほり としひろ) 幕臣・外国奉行
堀直休 (ほり なおやす) 第10代村松藩主
本庄道貫 (ほんじょう みちつら) 第9代高富藩主・若年寄
本多忠徳 (ほんだ ただのり) 第5代泉藩主
本多正寛 (ほんだ まさひろ) 第6代田中藩主


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土方雄嘉
2008-07-26 Sat 14:04
土方雄嘉

生:文政12年(1829)7月16日
没:安政5年(1858)8月28日
第11代菰野藩主
従五位下、備中守

略歴

文政12年、第10代菰野藩主・土方雄興の長男として生まれる。

天保9年、家督を継ぐ。

安政5年、死去。30歳

墓所:東京都文京区湯島の麟祥院


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本庄道貫
2008-07-26 Sat 13:54
本庄道貫

生:寛政9年(1797)11月5日
没:安政5年(1858)8月26日
第9代高富藩主・伏見奉行・若年寄
従五位下、近江守、伊勢守、安芸守

略歴

寛政9年、第4代吉田・松平信明の4男として生まれる。

文化3年、第8代高富藩主・本庄道昌の養子となる。

文化10年、従五位下近江守に叙任される。

文政2年、家督を継ぐ。

文政3年、長男:本庄道美が生まれる。

文政6年、伊勢守に改める。

文政10年、伏見奉行に任命される。

天保4年、奏者番に任命される。

天保12年、若年寄に任命される。

天保14年、安芸守に改める。

安政5年、死去。61歳

墓所:東京都足立区東伊興の法受寺


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戸田氏栄
2008-07-26 Sat 13:40
戸田氏栄

生:寛政11年(1799)
没:安政5年(1858)8月21日
戸田家6代当主、浦賀奉行、大坂町奉行

略歴

寛政11年、生まれる。

天保12年、西丸小姓から、徒頭に任命される。

天保13年、使番に任命される。

天保14年、目付、駿府町奉行に任命される。

弘化4年、日光奉行、浦賀奉行に任命、従五位下伊豆守に叙任される。

嘉永6年、ペリー来航時に主席全権に任命され交渉に当たる。

嘉永7年、ペリー再来航時にも主席全権に任命され日米和親条約を締結する。

安政4年、大坂町奉行に任命される。

安政5年、緒方洪庵に日本初の種痘の許可をあたえる。

安政5年、死去。60歳

墓所:岐阜県揖斐川町谷汲深坂の円立寺


一口メモ

日米交渉の際、幕府の全権として任に当たったが臆して前面に出ることを嫌い、奉行所応接掛の中島三郎助が直接交渉のほとんどを担当したといわれています。

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関長道
2008-07-26 Sat 13:17
関長道

生:文化12年(1815)1月15日
没:安政5年(1858)8月13日
第8代新見藩主
従五位下、但馬守

略歴

文化12年、第5代藩主・関長誠の次男・森長義の4男として生まれる。

天保9年、関家の養嗣子になる。

天保12年、家督を継ぐ。

安政5年、死去。44歳

墓所:岡山県新見市の西来寺


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戊午の密勅
2008-07-26 Sat 13:12
戊午の密勅

安政5年(1858)8月8日、孝明天皇が幕政における復権を画策していた水戸藩の朝廷工作に乗り、関白・九条尚忠の裁可を得る正式な手続きを経ないまま水戸藩へ勅諚を下賜した事件。

勅諚は権大納言で武家伝奏の万里小路正房の里亭において水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門に下り、その子である鵜飼幸吉の手によって水戸藩家老の安島帯刀に渡り、藩主の徳川慶篤に伝達された。

主な内容
・勅許なく日米修好通商条約締結の事後報国は大不審であり詳細な説明を求める。
・朝幕の不一致は重大事につき徳川斉昭ら徳川家を扶翼する家を処罰するのは心配だ。御三家および諸藩は協力して公武合体を推し進め、国内を治め、外国から侮られないよう幕政改革を求める。
・上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書。

幕府を介さず直接勅諚が藩へ下賜されたことにより幕府の権威が蔑ろにされてしまった。


一口メモ
・後に老中・井伊直弼が安政の大獄を引き起こす要因にもなり、この事件に関係した多くの水戸藩士が処罰を受けることとなった。

・幕府からの勅書返納命令に対し、水戸藩内は返納賛成派(鎮派)と反対派(激派)に分かれて対立、翌年に朝廷から出された返納の勅により朝廷へ直接返納することで藩論が統一される。
反対派の藩士は脱藩をし返納を実力で防止しようと長岡宿での検問を実施(「長岡屯集」)したが、前藩主・徳川斉昭の説得により解散、一部過激派は江戸へ向かい桜田門外の変を引き起こすこととなる。


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池田清直
2008-07-26 Sat 13:03
池田清直

生:文化9年(1812)8月15日
没:安政5年(1858)8月6日
第8代若桜藩主
従五位下、淡路守

略歴

文化9年、第7代鹿奴藩主・池田仲雅の8男として生まれる。

弘化4年、第7代若桜藩主・池田定保の末期養子となり家督を継ぎ、従五位下・淡路守に任命される。

安政5年、死去。47歳

墓所:鳥取県鳥取市国府町奥谷の池田家墓所


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坂本乙女宛書状−安政5年7月
2008-07-25 Fri 18:24
此状もつて行者ニ、せんの大廻の荷のやり所がしれん言ハれんぞよ。
此男のに物ぢやあきに、状が龍馬から来たけんどまちがつたと御いゝ可被下候。
先便差出し申候しよふ婦は皆々あり付申候よし、夫々に物も付申候よし、其荷は赤岡村元作と申候ものゝにて候。
此状もちて行くものニて御座候。
めしをたいてもらい候者ニて候。
誠ニよき者故よろしく御取成可被成下候。
大いそぎにて候故、御すいりよふ。
此節は○がなく候故いけなく相成申候。
私しかへりは今月の末より来初めにて候得共、御国へかへり候はひまどり可申と奉存候。
又、明日は千葉へ、常州より無念流の試合斗り申候。
今夜竹刀小手のつくらん故、いそがしく御状くは敷事かけ不申候。
 かしこ                                     坂本龍



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上杉勝義
2008-07-25 Fri 18:18
上杉勝義

生:寛政4年(1792)9月3日
没:安政5年(1858)7月29日
第4代新田藩主
従五位下、駿河守、佐渡守

略歴

寛政4年、第8代米沢藩主・上杉重定の長男・上杉勝熙の4男として生まれる。

文化12年、第3代新田藩主・上杉勝定の養子となり家督を継ぐ。

天保13年、家督を養子・上杉勝道に譲り隠居する。

安政5年、死去。67歳

墓所:東京都港区白金の興禅寺


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森川俊位
2008-07-25 Fri 18:07
森川俊位

生:天保12年(1841)
没:安政5年(1858)7月26日
第10代生実藩主
従五位下、出羽守

略歴

天保12年、第9代生実藩主・森川俊民の3男として生まれる。

安政2年、家督を継ぐ。

安政3年、従五位下・出羽守に任命される。

安政5年、死去。18歳

墓所:千葉県千葉市中央区の重俊院


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幕末用語・人名辞典(わ行)
2008-07-25 Fri 18:00




分部光寧 (わけべ みつやす) 第10代大溝藩主
渡辺崋山


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分部光寧
2008-07-25 Fri 17:55
分部光寧

生:文化6年(1809)8月
没:安政5年(1858)7月21日
第10代大溝藩主
従五位下、左京亮

略歴

文化6年、第9代大溝藩主・分部光邦の子として生まれる。

文化7年、家督を継ぐ。

天保2年、家督を譲り隠居する。

安政5年、死去。50歳

墓所:滋賀県高島市大溝の円光寺


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高杉暢夫を送る叙
2008-07-25 Fri 17:48
高杉暢夫を送る叙

安政5年、吉田松陰が文学修行を命ぜられて江戸へ向かう高杉暢夫(晋作)に贈った送序。

暢夫の識を以て、久坂玄瑞の才を行へば成就しないものはないと期待を寄せ、
「天下固より才多し、然れども唯一の玄瑞を失ふべからず」
と戒めている。


高杉暢夫を送る叙
余嘗て同志中の年少多才なるを歴選し、日下玄瑞を以て第一流と為せり。
已にして高杉暢夫を得たり。
暢夫は有識の士なり。
而れども学問早からず、又頗る意に任せて自ら用ふるの癖あり。
余嘗て玄瑞を挙げて以て暢夫を抑ふ、暢夫心甚だ服せざりき。
未だ幾くならずして、暢夫の学業暴かに長じ、議論益々卓く、同志皆為に袵を斂む。
余事を議する毎に多く暢夫を引きて之れを断ずるに、其の言往々にして易るべからず。
ここに於いてか玄瑞も亦尤も之れを推して曰く、「暢夫の識や及ぶべからず」と。
暢夫反つて更に玄瑞の才を推して、当世無比と為す。
二人懽然として相得たり。
余或とき、傍より之れを賛して曰く、「玄瑞の才はこれを気に原づけ、而して暢夫の識はこれを気に発す。
二人にして相得たれば、吾れ寧んぞ憾みあらんや」と。
是れより先き、玄瑞已に東遊し、暢夫も今亦将に東せんとす。
相後るること蓋し六月の間のみ。
而して天下の勢、変動すること一ならず。
当今幕府、勅に違ひて慮と和す。
天子赫然として幕府に詔し、三家・大老を召したまふ。
幕府の従違未だ測度すべからず。
天下疑懼し、左右観望す。
而して吾が藩新たに幕命を受けて、兵庫に備ふ。
兵庫は摂津に属し、所謂畿内なり。
畿内の地は、天朝切に之れを夷狄に仮すを禁じたまふ。
而して幕府は五港を以て墨夷に許す。
兵庫は蓋し其の一なり。
且つ聞く吾が君相は征夷の謀を是とせず、将に書を幕府に上りて之れを諫争せんとすと。
ここに於いてか吾が世子正に江邸に在り、人或いは去留を以て世子の為に危ぶむ。
而して武門の大義は苟も去るべからず、去りて達せざれば、適々人の謗りを招くを知らざるなり。
暢夫論議を此の間に建て、多く余の意と合ふ。
而も其の精識なるに至りては、則ち余の及ぶ所に非ざるなり。
暢夫の事を議するや、素と持重多かりき。
近ごろは則ち振発凌励専ら気を以て之れを行る者の如し、蓋し其の識の進むあるなり。
玄瑞向に京に在り、便ち王事に死せんと欲す。
東下の後に及んで、又大艦に駕し黒竜江に赴かんことを謀る。
其の事に遇ひて難易を辞せず、身を奮つて之れを為すこと、率ね常に斯くの如し。
然れども吾れ独り其の或いは多岐に失せんことを憂ふ。
暢夫・玄瑞固より相得たり。
暢夫の識を以て、玄瑞の才を行ふ、気は皆其れ素より有するところ、何をか為して成らざらん。
暢夫よ暢夫、天下固より才多し、然れども唯一の玄瑞を失ふべからず。
桂・赤川は吾れの重んずる所なり。
無逸・無窮は吾れの愛する所なり。
新知の杉蔵は一見して心与せり。
此の五人の者は、皆志士にして、暢夫之れを知ること熟せり。
今幸に東に在り。
暢夫往け。
急ぎ玄瑞を招きて之れを道ひ、且つ之れを五人の者に語れ。
七月十八日