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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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(天誅)渡辺金三郎・森孫六・大河原十蔵・上田助之丞  
2010-03-03 Wed 14:06
(天誅)渡辺金三郎・森孫六・大河原十蔵・上田助之丞
 
文久2年(1862)9月23日、上田助之丞、江戸引き揚げの途中江州石部宿にて岡田以蔵ら二十四人余の襲撃を受け斬殺、粟田口に梟首される。


森、渡辺、大賀原等の姦物、江戸召され、二十三日発足の旨申し来る。
(『武市瑞山在京日記』)

薩摩からは田中新兵衛が行った。
そのほか五、六人も行ったようであるが、今その人の名前は忘れた。
長州からは久坂玄瑞と寺島忠三郎とほかに六、七人、土佐からは清岡治之助、山本喜三之進、堀内賢之進、岡田以蔵とほかに四、五名も行っておる。

(『天誅見聞談』)

この夜、斬奸の事これあり。
賢、乙、菊、熊、健、治、米、保、収、虎、喜、保、十二士也。
長より十、薩より二なり

(『武市瑞山在京日記』)
賢=堀内賢之進
乙=川田乙四郎
熊=千屋熊太郎
健=弘瀬健太
治=清岡治之助
米=筒井米吉
収=平井収二郎
虎=千屋寅之助
喜=山本喜三之進
菊=千屋菊次郎又は鎌田菊馬
保=中平保太郎又は小川保馬又は小笠原保馬
(『保』が重複しているが『以』=岡田以蔵の誤植の可能性もありえる)

一、森孫六は何か次ぎの間さわがしく、かねてあやしく存じおり候や、障子を投げ付け、逃げ懸かり候ところへ切り込み候に付き抜き合わせ、しばらくよほど手強く切り合いこれあり、打ち留め候よし。
首もよほど疵多くこれあり候よし。
一、渡辺金三郎はこれも抜き合わせ切り合い候えども、二,三合にて何の工もなく打ち留められ候よし。
一、大河原十蔵は次の間何かさわがしく故、何者なるやと声かけ候ところ、用向きこれあり参り候由申し候に付き、用向きならばしずかに申すべき由申し候えば、この方の面見知りおり候や、その方の命申し請けたく参り候由申し候ところ、入用の品により、いかようともと申すや否や、首は前へ落とし候よし。
これにより首は無疵にこれあり候由。
ただし、この節、火鉢を持ちおり候由。
死後、火鉢はなれずとの事。
一、上田助之丞は士参り候節、折節、留主にて、家来の者、留主の由申し候ところ、留主のはずはこれなき由にて家内中をさがし候えども見えず候に付き、是非なく帰り掛け候ところへ戻り来り、門口にて出合い候に付き、早速切り付け候ところ深手を負い、そのまま逃げ去り候由。
これにより首なし。
首は打ち漏らしに相成り候よし。
ただし、上田は深手のまま近辺の八百屋へ逃げ込み、水を一口呑み候て、ただちに落命のよし。

(『岡田良之助雑記』)

京都粟田口御仕置き場北側へ青竹を突き差し、白木綿切れにて髪の毛にくくり・・・
(『山寺源大夫雑記』)

                             渡辺金三郎
                                森 孫六
                             大河原十蔵
右、戌申巳来、長野主膳、島田左近の大逆謀に与し、加納繁三郎、上田助之丞等、諸奸吏どもと心を合わせ、古来未曾有これある御国体を醸し、いささかにても国事を憂い候者、ことごとく無名の罪を羅織し、はなはなだしきに至りては配流の厳刑を用い、おのが毒計を逞しゅうせんと致し、天地宥すべからざるの罪、一々枚挙遑なく、これにより天戮加うもの也。
   戌九月

(『山寺源大夫雑記』)

私はその晩は行かなかったが、翌日、木屋町の瑞山先生の宿所に参りますと、薩人が一人、血糊の付いた刀を抜いて改めておる。・・・
(堀内賢之進)にあれは誰であるかと聞くと、あれは薩の田中新兵衛である、実は昨晩しかじかのことで、我々は石部へまで出懸けて大仕事をやって来た、との話でござりました。

(『天誅見聞談』)


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