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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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(長州藩士の)外国公使暗殺計画
2010-03-04 Thu 16:10
(長州藩士の)外国公使暗殺計画

文久2年、長州藩士の高杉晋作が料亭「下田屋」にて

「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ・・・」

と対抗意識を強め、同藩士の久坂玄瑞、志道聞多、有吉熊次郎、大和弥八郎、長嶺内蔵太、白井小助、赤禰武人、山尾庸三、寺島忠三郎、品川弥二郎、堀真五郎、福原乙之進とともに横浜金沢でたびたび遊んでいる外国公使を襲撃する計画をたてました。

久坂玄随は土佐藩の武市半平太にも協力を求めましたが同意は得ることは出来ませんでした。

計画を知った武市は阻止しようと勅使・三条実美と姉小路公知に報告、両勅使は連署した久坂宛の書簡を桜庭次郎にもたせ諫止させようとしました。

さらに武市は土佐藩士・小南五郎右衛門を通じて前土佐藩主・山内豊信にも計画を報告しました。

山内豊信は小南五郎右衛門を長州藩世子・毛利定広に急使として派遣し

「大和弥八郎・長嶺内蔵太・志道聞多・久坂玄瑞・寺島忠三郎・有吉熊次郎・高杉晋作・白井小助・赤根幹之丞・品川弥次郎・山尾要蔵の面々が密会し、神奈川まで出掛け、明14日横浜の異人館へ討ち入り、暴発するとのことです。幣藩の内にも同志一両人がおり、実は彼らから内報がありました。折角の御周旋中、勅使も下向され、十中八、九ほどは調いつつあるところ、このようなことがあっては、大いにその妨げともなり、尊藩の首尾にも拘るだろうと、容堂様は深くご懸念になっています。御自身が鎮静のためお出ましになりたいところですが、御用で登城せねばならないので、この件を長門守さまへお知らせし、鎮静の処置をとられるよう申上げるようお命じになりました」

と計画阻止を訴えました。

毛利定広は

「周旋掛・その他の者を差し向ければ争論となり、伏見の趣になり、無益に死亡者が出ることにもなろうから、自らが鎮静に出向きたい」

と薩摩藩士が同士討ちを行った寺田屋事件の二の舞を恐れ、直ちに藩兵と使者を派遣、自らも蒲田梅屋敷へ出張しました。

料亭「下田屋」へ到着した使者は

「兎に角、蒲田の梅屋敷まで御足労願いたい。梅屋敷では他ならぬ毛利定広公が一同に是非逢いたいと御待ちかねだから、その上で万全を期して事を決行されても遅くはあるまい」

と毛利定広が滞在する蒲田梅屋敷まで呼び戻しました。

蒲田梅屋敷へ呼び戻された藩士に対し毛利定広から

「将来自分が藩主になった時お前たちの様な優秀な家来が居なくては困る。どうか無茶なことはやめて欲しい」

と直接説諭されて「大いに恐縮して謝罪」し、襲撃は未然に阻止されました。


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