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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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蒲田梅屋敷事件
2010-03-04 Thu 17:30
蒲田梅屋敷事件

文久2年11月13日、外国公使暗殺を中止した高杉晋作ら長州藩士と土佐藩士らが蒲田梅屋敷で酒宴をしていた席上、突如酒に酔った長州藩士・周布政之助が馬で駆けつけ前土佐藩主・山内豊信を

容堂公はなかなか御上手の御方、尊王攘夷をチャラカシなさる
(『維新土佐勤王史』)

此節容堂君は日々登城せらるれども才気に任せて一時を せらるるのみにて攘夷のことにも遵奉の事にも未だ実効なし。実は隠居の身にて要なきことに手を出さざるものなりなど誹謗すれど、此節から此君なくては到底目的を達する事能わず
(『続再夢紀事一』)

誹謗中傷し、土佐藩士を激昂させました。

主人を悪口せられては聞き流しがたし

と腰刀を立てて詰め寄ったとされています。
長州藩士11名がその間に入り、高杉・久坂が

御憤りはさる事なれど此席にて諸君の手にかけんとせらるれば拙者共は却て周布を保護せざるを得ず。ゆえに今日のところは拙者共に任せらるべし。尤も任せられし上は拙者共周布を討ちて明朝その首級を貴藩の御邸に持参すべし

となだめたので、それならばと土佐藩士もその場は納得しました。

帰邸した土佐藩士が前夜の出来事を前土佐藩主・山内豊信に報告した所

汝等、君辱められ臣死するの義を知らずや、何ぞ其の場に周布を打果しまいらざるぞ

と叱責され、一時はその場にいた門田為之助・間崎哲馬・岡本恒之助らが切腹を申し付けられるにいたりましたが、武市半平太の尽力により回避されました。

14日、土佐藩士が周布の身柄引き渡しを求め長州藩邸に乗り込みましたが、長州藩世子・毛利定広が自ら引見して謝罪し、周布を取り調べた結果によっては手討ちにもしようと述べました。
これで面目を施した土佐藩士は長州藩邸を引揚げたそうです。

その後定広は鍛冶屋橋の土佐藩邸を訪ねて、豊信及び藩主豊範に陳謝し、周布の処分については父敬親不在を理由として猶予を乞いました。


その後長州藩は周布政之助に麻田公輔と改名させ活動させていきました。


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