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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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(天誅)村山可寿江生け晒し
2010-03-04 Thu 17:49
(天誅)村山可寿江生け晒し

祇園芸奴・村山可寿江は井伊直弼の寵愛を受け、長野主膳と共に志士の動静探索に尽力した。

文久2年11月15日、薩長両藩志士により三条河原東詰めにて生き晒しにされる。


十一月十五日朝、鴨河原三条上ル所、木綿晒し机に村山かずへと申す者、衣服著用のまま縛りこれあり。 巳刻前、何方へか連れ行き候由。 同人義、北野辺に住居罷りあり候ところ、去る頃より身を隠し、剃髭いたし、当時、一貫町辺尼寺に罷り候由相聞き申し候事。
(『東西評林』)

島原の遊郭に近い所のある裡屋に文吉が案内しました。
ここであると申しますので、それと皆踏み込みますと、汚い部屋に四十五、六とも見ゆる一人の老婆が寝ていた。
襟髪を摑んで声を立てると命がないぞと威し、家の外まで引き出しました。
これほど大勢で行ったのでありますから、隣でも知ってはおりましょうが、後難を恐れて誰も出て見るものはない。
この婆が可寿江であったのであります。
色の白い、小柄で面長な、若い時はさぞかしと思わるるほど美しい婆でありました。
格別、周章した様も見えないが、さすがに身体は顫ておった。・・・
それから、かの婆々を三条大橋の所へ引っぱって来ましたが、何分女であるから殺すまでの事もなかろうと云うので、東に向かいて左側の行詰めの橋の柱へ縛って罰文を付けて生き晒しにして置きました。

(『村山可寿母子捕梟ノ事』)

              村山かずへ
この女、長野主膳妾として戌午以来、主膳の奸計を相助け、稀なる大胆不敵の所業すすめ、赦すべからざる罪科これあり候えども、その女子の旨をもって、面縛の上、死罪一等これ減ず。
もっとも、かずへ白状によって奸吏の名目一々これ記し畢。
なおこの上、御役方再負応吟味遂げ、右奸吏ども逐一厳刑可うべきもの也。
       十一月十五日

(『東西評林』)


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