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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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(天誅)多田帯刀
2010-03-04 Thu 20:12
(天誅)多田帯刀

文久2年(1862)11月16日、安政の大獄に際し、長野主膳と母・村山可寿江とともに尊王攘夷派志士の弾圧に加担したことにより、長土両藩の尊攘派志士に襲われ斬首、三条河原東詰にて梟される。


その夜十五日の晩であるが、家主はああ云ったものの、とても連れては来まいと思ったけれども、まず行って見ようと云うので、前晩の連中で出掛けまして、三条の橋へ行って待っておりますと、どう云う具合に欺いたものか、家主が可寿江の倅の多田帯刀と云うものを連れて来た。
引き立てまして河原の所へ参りまして、ここで斬ってしまうかと云う評議もありましたが、前晩である、ここに大勢烏鷺々々しておっては幕吏の怪しむところとなるの恐れがある。
また、御所近い所を鮮血に汚すのも恐れ多いなど云うものがありまして、結局、蹴上まで引っぱって行くと云う事になり、すぐ連れて参りました。
帯刀は年齢二十三、四歳、これもなかなかの美男でありましたが、行くうちもいわゆる屠所の羊で足許がフラフラ浮いていました。
蹴上へ参りましてから、戊午以来のことを吟味すると逐一白状しました。
それから道側に溝があった。
その溝の手前へ左向きに坐らして、手拭で目隠しをなし、小畑が斬ったがうまく切れない。
誰であったか、長州のものが切ると、首が前に落ちた。
その首を取りあげたのが私で、髻をかたわらの立木の枝に結び付けて梟しました。

(『村山可寿母子捕梟ノ事』)


十一月十六日朝、粟田口御仕置場向かい往来の北側に、年齢三十才ばかりの首を青竹の先に括り建て、木綿縞綿入り納戸色股引着用、白き褌を〆め罷りある町人体の胴にこれあり、左の建札もこれあり。
帯刀事、金閣寺家中の由に候。
十五日便申し上げ候村山かずへ倅の由。

(『東西評林』)


                      多田帯刀
この者儀、島田左兵衛、加納繁三郎、長野主膳等互いに奸計相働き、第一、戊午の年に至り、有志の徒の書面を開封せしめ、渡辺金三郎に相渡し候より事露見致し、ついに憂国赤心の者ども、一時地を払うに至り、その罪、実に天地に容るべからず。
その余、逐一白状の条、枚挙すべからず。
よってその一端を挙げ、天誅を加うるもの也。
    十一月十六日

(『官武通紀』)


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