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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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浪士組
2010-03-16 Tue 23:45
浪士組

文久3年、征夷大将軍・徳川家茂が上洛することとなり、その警護を目的として結成された組織で、清河八郎の提唱で有能な人材であれば身分を問わず参加することが出来た。
(新選組・新徴組の前身)


経緯

文久2年
12月9日

幕府が講武所剣術教授方・松平主税助に浪士取扱、講武所剣術世話心得・山岡鉄舟、田安家奥詰・窪田治武右衛門に浪士取締役を命じる。

  一          講武所剣術教授方
              松平主税助
浪士之内有剛之趣ニ付。召抱仰付。取扱中寄合席と可被相心得候。為御手当三百俵被下。
講武所剣術教授方。是迄之通可心得候。

 

12月24日
幕府が小普請・鵜殿鳩翁を浪士取扱役に任命する。

一              鵜殿鳩翁
浪士之内有志之者取扱被仰付。諸事松平主税助申合可相勤候。
席之義ハ寄合と可相心得候。為御手当三百俵被下之。



文久3年
1月7日
幕府が浪士取扱・松平主税助に浪士募集を命じる。

一今般御政事向追々御改革被遊候に付ては、 浪士共の内有志の輩御集に相 成、一方の御固め可被仰付候。尤も篤と逐探索、一旦過失有の候歟又は遊惰に耽候共、改心之上尽力報国に志厚き輩往の忌憚に不拘、出格の訳を以て御免し之義も可有之候間、其心得にて名前取調早々可被申聞候事
                    浪士取扱役
  正月七日              松平主税介殿



1月19日
浪士取締役・山岡鉄太郎が近藤勇を呼び出し面談する。

1月26日
幕府が御小納戸役・中条金之助を浪士取扱に任命する。

2月4日
清河八郎主宰により江戸小石川伝通院の処静院大信寮にて、征夷大将軍・徳川家茂の上洛の警護を目的とした浪士組が結成される。
浪士取扱・松平主税助が辞任する。

2月6日
浪士組一同が伝通院大信寮に会し、浪士取扱・鵜殿鳩翁より道中心得を申し渡され、組織編成が行われる。

浪士取締役 - 鵜殿鳩翁・清河八郎・山岡鉄太郎・石坂宗順・松岡万・池田徳太郎ほか
一番隊 - 根岸友山・家里次郎・殿内義雄・清水吾一・遠藤丈庵ほか
三番隊1 - 芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助ほか
三番隊2 - 新見錦・阿比類鋭三郎・井上源三郎・沖田林太郎ほか
五番隊 - 山本仙之助・玉城織衛 その他
六番隊 - 村上俊五郎・大村達尾・柏尾馬之助(柏尾右馬之助)ほか

2月8日
浪士取締役・鵜殿長鋭、浪士取締役・山岡鉄太郎、松岡万らが浪士組を率いて征夷大将軍・徳川家茂警護の為伝通院を出立、大宮宿に至る。

2月9日
浪士組が鴻巣に至る。

2月10日
浪士組道中先番宿割・近藤勇が六番組小頭・芹沢鴨らの宿手配を誤り、芹沢一派が本庄宿路上で大焚火を焚く。

2月11日
浪士組が松井田に至る。

2月12日
浪士組が追分に至る。

2月13日
浪士組が長久保に至る。

2月14日
浪士組が下諏訪に至る。

2月15日
浪士組が奈良井に至る。

2月16日
浪士組が須原に至る。

2月17日
浪士組が中津川に至る。
浪士組の近藤勇が芹沢鴨の後任として三番組小頭に任命される。


一 芹沢鴨隊長相止候跡へ、近藤勇跡役申渡候。右近藤勇一隊、石坂宗順一隊より操替致し候間、さ様御心得可被成候。以上。
  二月十七日          取締役
      組々小頭江


2月18日
浪士組が伏見に至る。

2月19日
浪士組が加納に至る。
芹沢鴨が取締役附に任命される。

2月20日
浪士組が柏原に至る。

2月21日
浪士組が佐武に至る。

2月22日
浪士組が大津に至る。

2月23日
浪士組が入京する。

更寉寺 - 根岸友山ら59人
新徳寺 - 鵜殿鳩翁・清河八郎・山本仙之助ら38人
壬生村会所 - 村上俊五郎ら10人
南部家 - 10人
中村家 - 石坂宗順・新見錦ら30人
四出井家 - 30人
八木家 - 近藤勇ら10人
浜崎家 - 10人
柳家 - 12人
近隣農家1 - 9人
近隣農家2 - 9人

2月24日
清河八郎、学習院へ攘夷遂行の志願の上書を奉じて受理される。

2月28日
浪士組三番小頭・近藤勇が六番組小頭に任命される。

2月29日
浪士組六番小頭・近藤勇らが御所を拝観する。
浪士組一統に新徳寺への集合が通知される。

  覚
攘夷之儀及切迫候間、存寄申立度人々新徳寺本堂エ集会有之度、此段一統エ可被申達候。以上。
  二月廿九日        取締役
      組々隊長
      目付中
      世話役


2月30日
清河八郎が浪士組帰東の上書を学習院に提出する。

3月3日
関白・鷹司輔熙を通じて浪士組に東下の達しが通達される。

                   浪人奉行
                         鵜殿鳩翁
                   同取扱役
                      山岡鉄太郎
今般横浜港へ英吉利軍艦渡来、昨戌年八月武州生麦ニ於テ薩人斬夷之事件ヨリ三ヵ条申立、何レモ難聞届筋ニ付其旨及応接候間、既ニ兵端を開クヤモ難計、仍テ其方召連候浪人共、速ニ東下致シ粉骨砕身可励忠誠候也。
   文久三年三月三日 


会津藩から浪士組に清河八郎の暗殺命令が下る。

3月10日
京都残留浪士組の芹沢鴨、近藤勇、新見錦、平山五郎、山南敬助、沖田総司、野口健司、土方歳三、原田左之助、平間重助、藤堂平助、井上源三郎、永倉新八、粕谷新五郎、阿比留鋭三郎、斎藤一、佐伯又三郎ら十七名が会津藩へ京都残留嘆願書を提出する。

3月12日
京都残留浪士組の芹沢鴨、近藤勇、新見錦、平山五郎、山南敬助、沖田総司、野口健司、土方歳三、原田左之助、平間重助、藤堂平助、井上源三郎、永倉新八、粕谷新五郎、阿比留鋭三郎、斎藤一、佐伯又三郎ら十七名が会津藩の御預かりとなり、壬生浪士組と名乗る。

3月13日
浪士取扱・鵜殿長鋭、取締役・山岡鉄太郎、新徴組士・清河八郎らが隊士二百余人を率いて江戸へ向け京都を出立する。

3月28日
浪士組が江戸へ至る。

4月17日
浪士組が隊名を『新徴組』と改め庄内藩主・酒井忠篤付属となる。


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