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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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長井雅楽
2010-04-12 Mon 20:53
長井雅楽

生:文政2年(1819)5月1日
没:文久3年(1863)2月6日
長州藩中老

略歴

文政2年、長州藩中老・長井次郎右衛門泰憲の長男として生まれる。

文政5年、父の死により家督を継ぐ。

天保8年、藩主・毛利敬親の小姓役に任命される。

嘉永3年、奥番頭格、藩校・明倫館の内用掛に任命される。

嘉永4年、藩世子・定広の後見人に任命される。

安政5年、直目付に任命される。

文久元年3月、公武一致と開国容認を内容とする「航海遠略策」を藩主・毛利敬親に建言し、藩是に採用される。

文久元年5月、議奏・正親町三条実愛に「航海遠略策」の建白書を提出する。

文久元年7月、老中・久世広周に「航海遠略策」を上申する。

文久元年8月、老中・安藤信行に「航海遠略策」の趣旨を陳ず。

文久2年1月、中老に任命される。

文久2年2月、老中・久世広周らに召され公武間の周旋を依頼される。

文久2年5月、「航海遠略策」に朝廷を誹謗する内容があるとされ、待罪書を提出する。

文久2年6月、長州藩で排斥運動が起こり、公武間の周旋が打ち切られ帰藩のうえ謹慎を命じられる。

文久2年7月、親類預りの処分が下る。

文久3年2月、藩命により自邸にて自刃。45歳

墓所:山口県萩市の海潮寺


一口メモ

『航海遠略策』による公武周旋で長州藩は中央政局の表舞台に立つことができ、外様藩の幕政関与の先駆けとなり、後の外様雄藩の活動の道を切り開いた。

吉田松陰の仇敵関係にあった為、松下村塾出身者が中心となった明治新政府により不当に評価されたが、新政府の行った政策は『航海遠略策』そのものだった。


辞世:君がため捨つる命は惜しからで ただ思はるる国の行くすえ


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