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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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(天誅)足利三代将軍木像梟首事件
2010-04-27 Tue 20:42
(天誅)足利三代将軍木像梟首事件

文久参年2月22日、尊王攘夷派志士により京都等持院の足利尊氏・義詮・義満三代の木像の首が三条河原で梟首される。

朝廷に代わって政治を行う幕府を批判し、巨悪の代表として室町三代将軍の木像に天誅を加えました。
これは翌日にせまった浪士組の入京に対しての挑発の意味合いも含まれていると思われます。


「二月二十二日、西山の等持院と申す寺へ帯刀人二人参り、安尼を案内にいたし、足利三代の木像首を持ち出し…
門前へ出で、大勢鬨声を挙げ候に付き、見候えば三十人余も同類の人おり候と申す事、今日承り候」

(『如坐漏船居紀聞』)


一        逆賊 足利 尊氏
一            同  義詮
一            同  義満
正名分の今日に至り、鎌倉以来の逆臣、一々吟味遂げ、誅戮すべきところ、この三賊巨魁たるによりて、まずその醜像へ誅加うもの也。
  二月二十三日

(『官武通紀』)


この者どもの悪逆はすでに先哲の弁駁ところ、万人のよく知るところにして、いまさら申すに及ばずといえども、今度この影像どもを斬戮せし候に付いては、贅言ながら、いささかその罪状を示すべし。
そもそも、この大皇国の大道たるや、ただただ忠義の二字をもってその大本とす。
初代以来の御風習なるを、賊魁鎌倉頼朝世に出て朝廷悩ませ奉り、不臣の手始めを致し、ついで北条、足利に至りて、その罪悪、実に天地神人容るべからず、ともに誅するところ也。
しかりといえども、当時天下錯乱、名分紛擾の世、朝廷御微力にして、その罪を糺し給う事、遺感にしてあたわず。
あに悲しむべきや。
今、彼等が遺物等を見るに至りても、真に奮激に堪えず、我々不敏なりといえども、五百年昔の世に出でたらんには、生首引き抜かんものをと握掌切歯、片時も止婿とあたわず。
今や万事復古、旧弊一新の時運、遂に不臣の奴原の罪科を正すべきの機会也。
故に我々申し合わせ、まずその臣賊の大罪を罰し、大義名分を明かさんがため、昨夜、等持院にあるところの尊氏はじめ、その子孫の奴等の影像を取り出し、首を刎ねてこれを梟首し、いささか旧来の蓄憤を散ずもの也。
大将軍織田公に至り、右の賊統断滅す。
些く愉快と云うべし。
しかるに、それより爾来、今世に至りこの奸賊になお超過し候者あり。
その党許多にして、その罪悪、足利等の右に出ず。
もしその等の輩、真に旧悪を悔い、忠節を抽きて鎌倉以来の悪弊を掃除し、朝廷を補佐奉りて古来に復し、籍罪を贖うる所置なくんば、満天下の有志追々大挙して罪科糺すべきもの也。
 右は三日の間さらし置くもの也。
 もし取り捨て候ものは、きっと罪科行うべきもの也。

(『京都風聞書』より罪状書)


浪士達との対話により京都の治安を沈静化しようと考えていた京都守護職・松平容保はこの事件に激怒し25日には犯人捕縛を命じました。


「かかる尊貴を辱むるは、すなわち朝廷を侮辱するもの、ことにその暴行たる屍を鞭つに同じ。
速やかにこれを逮捕して厳刑に処せざれば、国家の典刑立ち難し」

(『京都守護職始末』)


会津藩が浪士の情報探索の為に間者として送り込ませていた大庭恭平の情報により26日から多くの浪士が捕縛されました。

捕縛者
大庭恭平
三輪田綱一郎
師岡節斎
青柳健之助
高松趙之助
宮和田勇太郎
建部建一郎
長尾郁三郎
長沢真古登
野呂久右衛門
西川善六郎

逃亡者
角田由三郎
小室利喜蔵
中島永吉
岡元太郎


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