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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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清河八郎
2011-06-02 Thu 18:06
清河八郎

生:天保元年(1830)10月10日
没:文久3年(1863)4月13日
庄内藩郷士
正四位


略歴

天保元年、出羽国にて酒造業・斎藤治兵衛豪寿の子として生まれる。

天保14年、清川関所役人・畑田安右衛門に師事する。

弘化3年、藤本鉄石と親交を結ぶ。

弘化4年、江戸に出て古学派の東条一堂に師事にする。

嘉永4年、千葉周作の玄武館で北辰一刀流を学ぶ。

嘉永5年、安積艮斎に師事する。

嘉永6年、酒田から蝦夷へ渡り海防を視察する。

安政元年、安積艮斎の推挙により昌平黌に入学するも失望し、神田三河町に清河塾を開く。

安政2年3月20日、母・亀代を伴い清川村から善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、大阪、宮島、岩国、天橋立、鎌倉、江戸、日光などをめぐる旅行に出かけ、日記『西遊草』を著す。(~9月)

安政4年、駿河台淡路坂に塾を開く。山岡鉄太郎・高橋泥舟と親交を結ぶ。

安政5年、北辰一刀流中目録免許を受ける。

安政6年、神田お玉ヶ池に文武指南所を開く。

万延元年、『虎尾の会』を結成。横浜外国人居留地を焼き討ちにし倒幕の計画を立てる。

文久元年5月20日、一市井人を酔いに乗じて無礼討ちにしたことから幕吏に追われ、処士・安積五郎と共に江戸を脱し、東北に潜行する。

文久元年8月8日、処士・安積五郎と共に水戸より平潟・相馬を経て仙台に入り、密に仙台藩士・桜田敬佐、戸津宗之進と会す。

文久元年10月7日、処士・安積五郎と共に南部・羽州を徘徊して三度仙台に入り、元薩摩藩士・伊牟田尚平と再会する。

文久元年11月9日、伊牟田尚平、安積五郎等と共に、上野・奈良を経て京都に至る。

文久元年11月12日、伊牟田尚平、安積五郎等と共に、元中山家家士・田中河内介と会し挙兵に関し謀議する。

文久元年12月24日、肥後高瀬の医師・松村大成宅にて浪士・平野国臣、伊牟田尚平と会し、薩摩藩の実情を聞く。

文久元年12月25日、平野国臣、伊牟田尚平、真木和泉と「筑後国山門郡」にて密会し謀議する。

文久2年1月2日、岡藩士・小河彌右衛門等と結び、事を挙げんことを約し、岡城下を去る。

文久2年2月15日、薩摩藩士・柴山愛次郎、橋口壮介と京都で会し、薩摩藩国父・島津久光の上洛及び九州諸藩志士盟約の状を告げ、東西呼応の策を決し、伊牟田尚平と共に江戸に下る。

文久2年3月25日、薩摩藩が田中河内介、藤本鉄石等数十人を大坂藩邸に収容する。

文久2年6月、島田左近を襲撃するが未遂に終わる。

文久2年8月24日、江戸に至る。

文久2年閏8月26日、水戸藩士・西丸帯刀を訪ねる。

文久3年2月4日、江戸小石川伝通院の処静院大信寮にて、征夷大将軍・徳川家茂の上洛の警護を目的とした浪士組を結成する。

文久3年2月23日、浪士組が入京、壬生に入り新徳寺にて尊攘の大義を講ずる。

文久3年2月24日、学習院へ攘夷遂行の志願の上書を奉じて受理される。

文久3年2月30日、浪士組帰東の上書を学習院に提出する。

文久3年3月3日、会津藩から浪士組に暗殺命令が下る。

文久3年3月13日、浪士取扱・鵜殿長鋭、取締役・山岡鉄太郎及び隊士二百余人と共に江戸へ向け京都を出立する。

文久3年4月2日、横浜居留地焼き討ち計画が幕府に露見する。

文久3年4月7日、老中・板倉勝静から浪士組取締役並出役・速見又四郎に清河八郎暗殺の密命が届く。

文久3年4月13日、江戸麻布一之橋で幕府見廻組佐々木只三郎、速見又四郎、高久安次郎に暗殺される。34歳

墓所:東京都文京区の伝通院
墓所:山形県東田川郡立川町の歓喜寺


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