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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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姉小路公知
2011-11-20 Sun 18:39
姉小路公知

生:天保10年(1839)12月5日
没:文久3年(1863)5月20日
堂上公家・正四位下・右近衛権少将・贈正二位


略歴

天保10年、左近衛権少将・姉小路公前の子として生まれる。

嘉永5年、元服し、従五位上に叙せられる。

安政5年3月、延臣八十八卿列参事件に加わり条約勅許の阻止に努める。

安政5年10月、侍従に任命され、従四位下に叙せられる。

文久2年8月、権大納言・広幡忠礼、正親町実徳、参議・庭田重胤、柳原光愛、大蔵卿・豊岡随資、正三位・長谷信篤、左近衛権中将・阿野公誠、滋野井実在、右近衛権少将・河鰭公述、三条実美、左近衛権少将・正親町公薫、修理権大夫・壬生基修らと連署して関白・近衛忠煕に呈し、内大臣・久我建通を弾劾する。

文久2年8月、和宮降嫁を推進する公武合体派の四奸排斥運動に加わる。

文久2年9月、攘夷督促の為、正勅使の左近衛権中将三条実美のもと副使として東下を命ぜられる。

文久2年9月、右近衛権少将に叙せられる。

文久2年10月、勅使・三条実美と参内し攘夷督促、親兵設置の勅書を授けられる。

文久2年10月、勅使・三条実美のもと、長州藩士・楢崎弥八郎、佐久間佐兵衛、久留米藩士・松浦八郎、土佐藩士・武市半平太らを従え京都を発す。

文久2年11月、江戸城に登城し勅書を征夷大将軍・徳川家茂に授ける。

文久2年11月、将軍後見職・一橋慶喜、政事総裁職・松平慶永と会見し、攘夷期日・攘夷令・親兵設置などを議す。

文久2年12月、江戸城に登城し征夷大将軍・徳川家茂から攘夷決行・親兵編制の奉答書を受け取る。

文久2年12月、新設の国事御用掛に任命される。

文久2年12月、帰京する。

文久3年2月、新設の国事参政に任命される。

文久3年3月、摂海警備の視察の為京都を出立する。

文久3年4月、幕府運搬船『順動丸』に乗船し軍艦奉行並・勝義邦の案内で摂海を視察する。坂本龍馬もそれに随行する。

文久3年5月、御所朔平門外巽の角(猿ヶ辻)にて尊攘派志士により暗殺される。25歳

墓所:京都市上京区の清浄華院


一口メモ

暗殺現場に残された刀から実行犯は薩摩藩士の田中新兵衛とされるも、奉行所で取り調べ中に自害したことにより真実は闇に葬られている。


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