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龍馬が生きていた時代にもしブログがあったら…。 激動の幕末を歴史の推移と共に紹介し、京都・萩・鹿児島・高知など今に残る史跡を紀行していく。
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朔平門外の変
2012-08-14 Tue 15:03
朔平門外の変

文久3年5月20日、国事参政、左近衛権中将・姉小路公知が御所朔平門外巽の角(猿ヶ辻)にて尊攘派志士により暗殺された事件。


経緯

5月20日深夜、朝廷内での議論を終え、三条実美と共に御所東側の公卿門(宜秋門)を出て三条は南から東へ回って、姉小路は北から東へ回って帰路についた。
三条は土佐藩山内家の付き人の護衛により南から東へ回って建春門の南を東へ進んでいると怪しい者3、4人が三条を害せんとする様子だったが護衛が厳しく姿を消した。
三条は姉小路の身を案じ御供の丹羽出雲守他2名を差し向けた。
姉小路は近習の吉村右京、鉄輪勇と下僕4人供を従え、御所西北角を東へ折れ朔平門を猿ヶ辻に差し掛かった時突然手裏剣が飛来して、吉村の足に突き刺さった。
すると3人の賊が太刀を振りかざし姉小路の肩先から咽喉にかけて切り掛け重傷を負わせた。
姉小路は「太刀を持て」と叫んだが、太刀を持っていた鉄輪はその場から逃走し姿を消していた。
姉小路は二、三度「太刀を」と叫ばれたが止む終えず、扇子で太刀を受け流し「右京、右京」を叫ばれた。
姉小路は賊が切りつける刀の柄を握り締めると、吉村は足の怪我を物ともせず刀を抜き斬りかけ、賊を逃走させた。
逃走する賊を吉村は追ったものの足に怪我をしており、姉小路の安否も気にかかったので現場に戻り、倒れていた姉小路を自邸に連れ帰った。

亥五月二十日夜四ツ時頃、姉小路少将公知朝臣、近習二人、僕二人召し連れられ、禁廷より退出のみぎり、御築地内朔平門前を通り懸けられ候折柄、樋柵の辺より狼藉者三人出合い、いずれも一同に白刃を振るいて、左右より少将殿目掛け切りて懸かり、一人は少将殿の右 より を懸けて切り付ける。
また、左よりも咽の辺を切り付ける故、少将殿も不意の事故驚き給い、太刀を持てよと呼ばわり給うを、太刀持ちの近習金輪勇、太刀を持ちながら逃げ去り、二人の僕も逃げ去り、左の方に付き添いたる近習吉村右京すぐさま抜き合わし、曲者に渡り合い切り結ぶ。
一人の曲者は少将殿の腰を目懸け切り付ける時、少将殿扇子にて避けらる。
その扇子、二つに切れ、少将殿の横腹を切り込む。
少将殿、深手を負われ、かの曲者の刀の中柄を聢と取らる。
この時、右京は曲者を追い散らし立ち帰り、この体を見て、すぐさまかの曲者の腰の辺りを健かに切り付ける故、曲者手ゆむところを少将殿、その刀を奪い取らる。
(『癸亥秘記』)


三条の命で駆けつけた丹羽に姉小路は三条殿の無事を喜び、「たとえ自分は死んでもその魂は長く留まって国家を護り奉ると」と言われた。
丹羽は三条邸に戻り、このことを復命、三条は早速医師の大町周防守・杉山出雲守・安藤精軒・近藤一綱・吉田中亭・海野貞治らを手配し見舞ったが深手により亡くなった。

 三ヶ処の手疵、面部鼻下一ヶ所長さ二寸五分許、頭蓋骨些欠損し斜に深さ四寸、胸部左鎖骨部一ヶ所長さ六寸許深さ三寸許、脈微細に付、衆医示談之上、甘硝、石精、磠砂、揮発精等相用い、連日半身浴、縫合術相行、針数二十八、尚又周防守家法養栄湯等相用候得共、何分深手急所之儀、養生相叶わず候事。
(『島津家国事鞅掌史料』)


翌日死亡を伏せる為、本人名義で遭難届けが提出される。

昨夜亥の刻頃、退出懸け朔平門東の辺にて武士体の者三人、白刃をもって不慮に狼藉、手疵相負い、逃げ去り候に付き、ただちに帰宅、療養仕り候。
 ただし、切り付け候刀は奪い取り置き候。よってこの段、御届け申し入れ置き候えば、急に御通達、厳重御吟味願い入れ存じ候。以上。
                   姉小路少将

(『七年史』)


何ぞ図らん同月二十日公知刺客の奇禍に罹らんとは、此の日公知参内、朝議ありて激論に及び、夜に入りて退朝し、其の朔平門外に来るや、月未だ東山に出でず、四顧朦朧たり。
覆面せる刺客、不意に溝の中より躍り出で、刀を揮ひて公知の肩先を斬る。
公知咄嗟し、従臣金輪勇を呼びて太刀を索む。
勇巳に逃れ去る。
他の従臣吉村右京、抜刀して其の賊を逐ふ時、更に二賊あり、暗中より公知を囲み撃つ。
一刀横に面部を払はれ、耳より口を傷く。
公知屈せず、笏を以て之を防ぐ。
右京急を見て返り救ひ、其の賊と闘ふ。
賊忽ち刀を投げつけ逸し去る。
右京急に公知を扶け、其の言に従ひ自邸に帰るや、公知「枕」と呼びて、気を緩むると共に絶息せり。

(『維新土佐勤王史』)


     文久亥五月
姉小路様御参殿之御帰ニ三条日野御門近ニ而御別被成候所、一人何者共不知刀以而、姉小路様目かけ切而かかり候けり候所、姉小路様右之者を手取ニし候所、刀をす而にげ候様子、又一人切かけ申候所、先之者刀ニ而切付候バ、此もにげ候。
尤姉小路様ハ先の者ニ首二刀、むね一刀切られ申候故、くせ者ニきずを付候事出来不申候。
姉小路様家来次者を以行き帰見れバ、又一人来而切合ニ及申候故、家来大音ニ而しかり候へば、次の者ニげ申候。
初之者の刀持家来かたにうちかけ帰候所、御居次ニ而まくら以こいと仰られ候。
まくらすけ其ままいきは御たへなされ候。

(坂本龍馬『雄魂姓名録』)


昨夜四ツ時、姉小路殿退朝の折、御築地の辺にて、何者やらむ、刃を振ふて胸間をさして逐てんすと云。此人朝臣中の人物にて、大に人望ありしが、何等の怨にやよりけん、此災害に逢はれし。小子輩此卿に附きて、海軍興起より、護国の愚策、奏聞を経て、既に御沙汰に及びしもの少なからざりしに、実に国家の大禍を致せり。歎息愁傷に堪へず
(勝海舟『幕末日記』)


将軍が軍艦で巡見すると云うことで、姉小路少将は大樹に随従して和田岬の方に検分に参ったのであります。
その時、勝麟太郎、今の勝安芳氏は無謀の攘夷は出来ぬと云う事で、姉小路に説いたと見えて、その時、帰って来てから鋭鋒が挫けた都合で、轟武兵衛なり武市半兵太などは、姉小路様は幕府に籠絡されたとか云いましたが、その時、大なる砲丸を二つ御土産に持って帰って、この丸が割れて飛ぶので、軍艦はこういうもので、丸はこういうものである。
充分にこの方の要害が出来ぬから危ないと云う事であります。
それから鋭鋒が鈍った。:::
神戸から帰って十日ばかり経つと、姉小路は暗殺に出合うたのである。

(東久世通禧談『史談会速記録』)


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